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【言論】ネット上の受験国語コンテンツについて

ネット上には高校受験や大学受験に関する様々なコンテンツが溢れている。中高生の多くが(特に受験生は)一度は検索してみたことのあるコンテンツ群なのではないだろうか。

特にYouTubeには受験に関する様々なテクニック動画が投稿されており、数十万回以上の再生数を誇るものも少なくない。

だが、こと国語、それもいわゆる現代文の領域に関しては、投稿されているコンテンツの質は極めて劣悪なものが多い。

彼らはほとんど、受験生の不安心に漬け込んだ戦略によって金を儲けようとしているだけに過ぎず、肝心の内容は二の次だ。

YouTube全体においてここ10年で「サムネ詐欺」や「タイトル詐欺」めいた、いわゆる「釣り」動画が溢れてしまっており、良心的なコンテンツは極めて限定されるようになった。

その中でも受験関連のものは特にひどい。更にその中では国語、更に更にその中でも現代文に関するコンテンツは最早悲惨なクオリティのものばかりだ。(言うまでもないがネット上に優れた受験コンテンツが皆無だと言いたい訳ではない。たとえば「ムンディ先生」の世界史の動画のように一定の評価を受けているコンテンツも存在する。)

では私が具体的に何を以て悲惨だと評するのか、あるいは良いものとそうでないものをどのように区別すれば良いのかについて、本記事で考察をしていきたい。

まずはじめに、タイトルやサムネイルに関する注意点から入ろう。

「東大生の勧める」「京大生の勧める」のような、大学の権威に乗じたタイトルを使っている場合は注意を払うべきだ。

何も東大生や京大生を批判したい訳ではない。彼らの提供するコンテンツの内容が必ずしも劣悪であると断定する気もない。

この場合、注意しなければならないのはコンテンツの内容ではなくむしろ我々視聴者側の「見方」の問題だ。

我々は悲しくも「権威」あるものに惹かれ、判断力を著しく鈍らせてしまう生き物である。「東大生」が言うことならとりあえず間違ってはないだろう、と思ってしまう。この考え方は無論適切ではない。だが我々人間は、ほとんど無意識的にこの間違った判断を下してしまうものだ。

動画では視聴数を稼ぐ為に人間の心理を利用したタイトルやサムネイルを付ける。
そもそも彼らが本当に東大生・京大生であるという保証すら無い場合もままある。

タイトルやサムネイルの魅力に目を眩まされて内容の正統性を見誤らないよう我々は常に注意しなければならない。無意識下で自らに科されたバイアスに対して出来る限り自覚的でなければならないのだ。

人間が生来有するこの種の性質には他にもいくつかあるが、それらは別の記事でまとめて紹介したい。

では次に内容の正統性について考える。

我々は「国語力の向上」「読解力の向上」などと言った「○○力」という言葉に警戒しなければならない。

その動画の中での丁寧な定義付けがなされているのであればまだ良いが、基本的に「○○力」という文言は意味がほとんど無限定で、発信する側も受信する側も「具体的に何のことを指しているのかと言われると答えに窮する」ような、あるいは「言葉の定義が全会一致にはまずならない」というような性質を有している。

このような文言を用いる際には必ず「この言葉はこのような意味合いで使っています」という意思表示がなければならない。(学問の世界ではこの定義付け・意思表示がなければ論として見向きもされない。)

かつて日本の某大学のスローガンに「人間力を高める」という文言が示されたことがある。だが「人間力」とは何か。彼らは一体何を指し示し、それによって何が言いたかったのか。このような文言を用いた主張は「何も主張していない」こととほとんど同じなのである。

このような文言を無自覚に用いている時点で投稿者は自身の指し示すところの「国語力」不足である。そのような動画の示す内容を鵜呑みにしてはいけないことは自明だ。

では次に、受験国語の業界では最早定番とも呼べるいわゆる「読解問題の方程式」について指摘したい。

現代文において、受験国語コンテンツの多くは「読解問題の方程式」などといった文言を提示する。そんなものが存在するかどうかの議論はさておき、「方程式」という言葉のチョイス自体が「現代文は何を勉強すれば良いのか分からない」という受験生の声・不安心を巧みに利用した、大衆の注目を引く為の極めてマーケティング的な名付けだ。
またもや怪しい文言の登場である。受験業界には金を稼ぐ為の巧妙な戦略が大量に渦巻いている。

それはさておき、いわゆる「読解問題の方程式」というものは、

①傍線部全体に線を引く
②指示語があればその部分を探しておく
③根拠探し
④選択肢チェック

云々の、論理の強引な「法則化」によって生み出されている。この「方程式」の類のテクニックを授業に取り入れている人間の中で一番有名なのは東進の林修だろう。

だが、これは現代文の評論や小説を読む作業、あるいは受験問題を解く作業の「簡略化」の方法に過ぎず、大学における研究の能力や社会における問題解決能力に全く役に立たないものであると声を大にして言いたい。

しかもこの「簡略化」は汎用性が高くなく、形式的にはどんな問題にも適用できるように見えても、実際には全く解けない・全く歯が立たない問題もかなり多い。よって大学受験という限られた世界においてすら必ずしも有効な手立てではない。更に、問題を解く行程そのものは単純化されているものの、かえってその文章の個別性の理解や場面ごとの柔軟な対応、全体を総合して読むという方向性を排除してしまう。「方程式」などという文言を用いれば、当然未だ提示されていない不確定な解法に可能性を見出だそうとはしない。(安パイに走る傾向を生む。)
1つの手段でしかないものを「絶対視」しかねないのだ。

この「読解の方程式」を用いて受験に臨ませる行為あるいは大学や社会へ送り出す行為は、まるで車の運転をする技術のないドライバーを未完成の自動運転機能を搭載した自動車に乗せて公道へ送り出しているようなものだ。

我々国語教師のなすべきは、完全な自動運転機能を完成させるか、あるいは一人一人の運転技術を確かなものに育てるかのどちらかである。
前者が未だ発見されていないため、我々には後者が求められる。(完全な読解の法則を見つけた人間がいたら間違いなくノーベル賞ものだ。)

それをネット上のコンテンツはあろうことか、運転未経験者の不安だけを巧みに取り除いて、(事故の危険性を取り除くこと無しに)公道に次々に送り出している。それが最も社会にとって害のあることだとは考えていない、あるいはその事実を見ようとせずに自社の自動運転機能を売り出すことにばかり終始している、という層は少なからずいる。(タチが悪いのはこの「方程式」が完全な不能ではなく、ことテストの点数アップに関してはたまに役に立つ時もあるという点だ)

結果、日本全体で文章を正しく把握する力や論理を構造化して別のケースに適用する力、あるいは自身の意見や主張を適切に表現する力等を著しく欠いた人間が量産されるに至った。

そして文科省は次期指導要領において世の中において実際的に役に立つ力を国語で身に付けさせなければならないと提言したのである。

わざわざ文科省がそのような当たり前のことを提言するのは、現に今の国語教育がその当たり前を達成出来ていないからである。次期指導要領には現場からの批判の声もあるが、まずは現状を重く受け止めることから始めた方がいい。仮に批判している先生は優秀だとしても、日本全体を見ると既に高校の国語教育は沈没しかけているのである。

そしてネットや予備校の「ビジネス国語」が更にそれに拍車をかけているように思えてならない。YouTubeや予備校で活動するという「業態」そのものを批判する気は毛頭ないが、全体で見たときにネガティブな要素がポジティブな要素を上回っているという感は否めない。

散々に各方面を批判してきたが、実は私自身、高校生から大学受験、そして学部生時代に現状の国語教育のあり方や考え方を盲信して、あるいは先述した「読解の方程式」を使って現代文を学んできた過去がある。そして逆に言えば現代文の勉強法をそれしか知らなかった。
私はそれで結果的にセンターの現代文は満点をとれた。恥ずかしいことだが、私は「読解の方程式」にすっかり順応して大学受験に挑んだ側の人間なのだ。

それがどこでその考えを改めるに至ったか。
現代文の勉強法は他にあるのか。
あるいは何故「読解の方程式」はこれほどの知名度を獲得するに至ったのか。

次回以降の記事ではこのあたりの問題について考察してみたい。

くれぐれもネット上の眉唾国語論に騙されないで欲しい。何かを「読む」力とは、例えばコンテンツを疑い抜く力のことだ。権威ある大学名や「○○力」「○○方程式」と言った耳障りのいいフレーズに振り回されず、その内容や方略に果たして普遍性があるか、あるいは自らの理性の発展に資するものであるか、勉強法や解法に関するコンテンツを質の確保されていないネット上で探そうとするのであれば、まずはそれらを自分の頭で考えてみて欲しいと切に願っている。