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未知なるカオスに向かって走れ

先日、探検家・作家の角幡唯介さんと大船のポルべニールブックストアで「越境」をテーマに公開対談した。私の文庫『空をゆく巨人』の解説を角幡さんに書いていただき、それがきっかけに今回の対談が実現。 (アーカイブは7月31日まで見られるそう)

ぶっちゃけた話をしてしまうと、わたしは、角幡本だったらノンフィクションだろうとエッセイだろうが書評だろが、愚直なまでに全て読んできました、ええ、そうなんです、という熱心なファンであり、ファンが憧れの作家と対談して良いのか、マジでそんなのいいのか、などと思いながらも、テーマは「アートと冒険」だし、千載一遇のチャンスだし、ということでも対談の話を頂くと迷いなくおひきうけした。

わたしが角幡さんを知ったのは開高賞受賞作の『空白の五マイル』の時だ。新聞記者を辞めて、自身の探検活動を始めるその心の旅路から始まり、前人未到のツァンポー峡谷の奥深くに分け入りながら、自身の探検の意義を過去の探検家の挑戦の歴史と重ねながら綴った本である。わたしはこの本にすっかり夢中になった。こんな面白い本があるのか、と衝撃だった。だから自分が国連職員をやめてものを書き始めた7年後、『空をゆく巨人』で開高賞を目指すことになったのも、この本の影響だと思う。

そんなことを対談の冒頭を話すと角幡さんは「まじですか、初めて言われたけど。。。いやー、気持ちいいっすね! そんなこと言われたことないです」と軽やかに笑った。え、そうですか?他にもそういう人いそうだけど。まあ、これはお世辞でも社交辞令でもなく、まったくの真実である。なにしろわたしは「生まれ変わったら冒険家になりたい」が口癖なんで。


角幡本はどれもこれも非常に面白いので未読の方はこれから読めるのか!とむしろ羨ましいくらいなのだが、いまはその面白さを書かない。私がいま書きたいのは、角幡さんが定義する冒険と自由についてである。

冒険について


彼はたびたび、冒険とはシステムの外に飛び出すことだ(「脱システム」)と書いている。

なにがあるのかわからない未知なるカオスに飛び出し、危険を承知で、自らの意思で創造的なパイオニアワークに挑むこと、それこそが冒険なのではないか。彼は『新冒険論』などの著作でたびたびそのように書いている。そういった意味では、例えばノーマルルートでエベレストに登ることは「冒険」ではない。世の中ではエベレストに登るのはそれなりにすごいことだと受け止められるだろうが、実はそこはもう過去に何百人という人が歩いてきた既存の道であり、なんなら登り方や戦略もそれなりに確立されている。だから、それはただ誰かがしてきたことをトレースし、ちょっと上書きすることにすぎない、というわけだ。なるほど。そう言われると、いま「冒険」という言葉が安易に使われ過ぎている気もするなあ。そして、ここでようやく対談のテーマに触れるが、冒険とアートは実はとても似た性質を持っているように思う。

さっきも書いたけど、わたしはプロフィールでたびたび「生まれ変わったら冒険家になりたい」とか書いているせいで、対談の中で、角幡さんに「どうして冒険に惹かれるのか」というようなことを聞かれた。自分でもよく理由はわからないが、子供の頃から冒険物の本を読むことが好きだった。そして大人になると、冒険というほどのアドベンチャーではないが、アメリカに移住し、途上国と言われる国々にひとりで旅し、先住民の神話を集めて過ごした。その後いったん日本に戻ったが、結局フランスに住み着いて何年も過ごし、なんだか落ち着きのない人生を歩んできた。まあ、そういう全てをひっくるめつつ、私は先の質問に答えた。

「うーん、”逸脱”することに惹かれるからかな」

考えてみると私は以前から(いい意味で)クレイジーで、世の常識から逸脱し、独自の道を歩む人に激しく惹かれる傾向にあった。たとえば、最初にわたしが取材して文章を書くきっかけとなったパリのスクワッター(不法占拠者)であったアーティストのエツツ(小林悦子さん)もそうだったし、『空をゆく巨人』の志賀忠重さんもそうだ。志賀さんは広大な山をいくつも無償で借り、9万9千本の桜を植えるという「誰も経験したことのない創造あふれたパイオニアワーク」で完全に「脱システム」している。

『空をゆく巨人』の文庫版カバーになっている「スカイラダー」という作品もほんとクレイジーで、500メートルの導火線の梯子を空に浮かぶ気球から吊し、炎の梯子を夜空に突如出現させるという作品である。作家の蔡國強さんは、世界各地でこの作品に挑戦しては失敗を繰り返してきたが、20年にもわたる執念的と度重なるオペレーションの改良をもとに、中国の漁村で深夜にゲリラ的に実行。本当に実現してしまった。写真一枚からはなかなかその凄さは伝わらないかもしれないが、その凄まじいまでの執念を知るとまた作品の見え方も変わってくるんじゃないかな。

全盲でありながら美術館の門を叩いた白鳥さんもまた、「誰も経験したことのない創造あふれたパイオニアワーク」という意味では冒険者のひとり、といってもいいのかも。

つまり冒険とは、知的な好奇心から端を発し、抑えようのない衝動を胸に、自ら常識的な世界から一歩足を踏み出し、その先の荒野を孤独に歩いていくという肉体的表現である。だから何も高い山に登ったり、極地に行ったりすることが自体が冒険なわけではない。リスクや危険に怯まず、誰もやったことのない挑戦、世の中の何に役に立っているかもわからないものにひたすら具体的に邁進していけば、それは冒険となる可能性は高い。逆にいかに危険でリスキーな行動に見えても、誰かがとっくに踏み固めた道を歩くものは冒険ではない。そして「冒険」と呼ばれる行為はひとそれぞれの人や生きるフェーズによっても異なる。だから、それぞれの人にはそれぞれの冒険があるわけだ。

それでは、なぜ自分が逸脱した人たちに惹かれるのかと問われると、たぶん20代から30代にかけて、自分がとても真面目に国際協力の世界で働いてきたことも大きいのかもしれない。当時、投入した資金がどのように社会の役に立っているかを評価・測定するという仕事をしていた。

意味があるのかないのか、効率的に物事が運営されているか、資源や富、社会インパクトを生み出しているか、究極的には役に立つか立たないかーーー。

そういうことを評価・測定する活動は、税金を使い、公平な形でプロジェクトを実施し、世の中を変えていくという意味ではとても大切なことだし、私はその仕事にやりがいを感じていた。しかし同時に、自分はそうものと無関係なことや、大きく逸脱した奇妙ななにか、役に立つか立たないかわからないもの、全く意味がわからない作品や行為ーーーなどにどうしようもなく惹かれてしまう。そういった人や事柄、作品に出会い、それを文章として焼き付けることで、私もその人たちが持つ何かを自分の中に取みこたいと願った。それによって自分も既定の道から外れて、自ら選んだ道を歩んでいけるのではないか、そんな風に思っていたと思う。

私にとっては、書くこと、そして自由になることは常に表裏一体のコンセプトである。私は書くことでずっと自分を変えよう、もっとしなやかな精神の自分になろうとしてきた。特に自分の精神を自由に保つことは、物理的に自由でいること以上に重要だった。特にこの12年はそこに向かって努力し続けてきたといってもいい。娘を産み、子育てのためいあまり遠くに旅ができなると、わたしはよくわからない理由で小山梨に小屋を作り始めた。振り返ると、あれはあれで自分の精神を自由に保つためのプロジェクトだったのかも。自分の手で木を切り、失敗しつつも、ひとつずつ何かができ上がっていく。それによって私はいつも昨日より自由になったように感じていた。

それでもなかなか一歩を踏み出せない時もあって、あれ、いま自分守りに入ってるのでは!?と思う時もしばしばだけどね。

新しい表現なのか

今回、『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』が本屋大賞ノンフィクション本大賞にノミネートされた。まあ率直なところいえばとても嬉しい。別に賞とか世の中の評価が全てではないけれど、『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』は自分なりの挑戦と冒険が詰まった本だからだ。そして、世の中で毎日無数の本が出る中で、こうして注目してもらえるのは、作家として生きていく上でとてもありがたいことである。

先の挑戦と冒険に戻ると、まず本のテーマである。

アートをテーマにしたノンフィクションというのはビジネスや社会問題、スポーツに比べたら極端に量が少ない。そして数少ないアートの本も、作家や作品を主軸に取り上げたものがほとんどで、鑑賞者という立場や作品を見るという行為について書かれた本はあまりなっく、さらには答えも正解もない自由な会話による美術鑑賞をテーマにしたノンフィクションなんか存在しない。まあそういう意味で、前人未到に近い荒野が目の前に広がっていたわけで、さらにそれを引っ張ってくれるのが、目の見えない白鳥さんと交わしたたくさんの会話だった。

しかも、自分で言っちゃうと、本としての構成も新しいものだ。作品写真とともに鑑賞者たちの会話が延々とドキュメントされている。こんな奇妙な構成の本、見たことないでしょう、どうです?

ある日、この本の構成アイディアを思いついたとき、わたしはワクワクすると同時に「ほんとに読み物として成立するのかな」「いいんだろうか?」「誰が読むんだ?」「なんの役にも立たないぞ」と内なる疑念もぎゅんぎゅんと渦巻いた。とはいえ、とにかく前に進むしかなかった。私は何はともあれ白鳥さんという人物に出会ってしまい、その体験を書きたかった。ノンフィクションとして成立するかどうかとか考える前に、「そこに山があるから」的な感じでもうやるしかなかった。そうして美術館に通い、生成的に生まれてくる生の会話を録音しまくって、ひたすら書き綴っていった。書き始めたはいいけど、どこに行き着くのかもわからず、完全なミステリートレイン状態に突入。途中でコロナになってぜんぜん美術館にも行けなくなっちゃうし、この本はもう出せないのかもしれないとすら途中で思った。

ノンフィクションというジャンルは、ある一定の問題意識とともに取材し、その結末に向かってひとつひとつ書き上げていくスタイルが多いように思う。その一方で私は書きたい内容も結末もよくわからない、という状態が続いた。おかげでこの本には感動のクライマックスなど全くない。でも、翻ってみると、感動のクライマックスなどないこのシビアな現実そのものを描きたかった。そういう意味でも、自分にとっても、ノンフィクションとしても挑戦的な本だと思う。

ちなみにノンフィクションによくある「序文」も書いていない。そのかわり、ただ架空のバスに乗る、という謎めいた場面から始めた。これもまたなんじゃらほいである。

そんなこんなで、世に受け入れられる自信もなかったので、この本が出版された当初は「こんな本を読む人はきっといないでしょう。きっと全然売れないから謝罪行脚したい」と編集者と営業の人に必死に訴えていた。

売れるか売れないかは別として、それでもわたしはこの本を生み出せたことに対しては深い充足感を覚えた。誰にも書いたことのないものをかけたぞ、これは本当に私の本なんだ、という確かな感覚があった。異なる他者と出会い、旅路をともにし、ものを生み出す。表現して生きる、という「生」の実感がくっきりとそこにあった。

自由について


この1年半ほど、大学時代の友人の三好大輔くんと一緒に『目の見えない白鳥さん、アートを見にいく』という長編映画を作ってきた。これは以前作った中編『白い鳥』(オンラインで公開中)の劇場公開版で、107分の映画作品である(作るのは当初想像の20倍大変だった。)。たぶん今年の10月から来年初頭にかけて、ちらほらと全国各地で見れるようになっていくはずである。

「はずである」というのも曖昧な書きぶりである。いや、これから世に届けていくんだけど、いわゆる配給に関してはほんとに紆余曲折があった。もうちょっと具体的に言うと、ある配給会社とは自ら決別し、別の配給会社からは断られてしまった。そこから、どこの誰にこの映画を預けたいのかわからなくなり、いろんな人に相談していった。その中でとても真摯にアドバイスをくれる人も現れ、映画の世界についての色々なことがわかってきた。

その上で、悩んだ末に私たちはこの映画は自主配給で届けてみようという結論に至ったのは最近のことである。わたしは映画業界にはまったく詳しくないので、ポジティブにいえば冒険的といえば冒険的だが、完全にアホといえばアホかもしれない。これからやるべき無数の仕事や、起こることを想像するだけで、楽しそうだなあ!と思うと同時にその仕事量に圧倒され、ちょと苦しくなる。編集者Aさんも「自主配給なんてやめてください、原稿書けなくなりますよ」と叫ぶし、ああ、やっぱり誰かプロに任せればよかったのかな、もっと楽する道があったはずなのに、どうして自分は一番面倒で先の見えない道を選んじゃうんだろ、どうしょもない奴だなと自分を後ろからキックしたくなる。

しかし、角幡さんはまたこうも書いている。

「自由とは混沌として不確定状態の中ですべて自分で判断して道を切り開いて命を紡いでいく状態である。真の自由とは、世間で考えられているようなお気楽な状態ではなく、実は苦しく、わずらわしく、めんどくさくて、時には不快でさえある」

この一文を読んで、わたしは救われた。
そっか。いま私がやろうとしてることは、苦しく、わずらわしく、めんどくさいことだ。でもこれは自由な冒険そのものなのかも。なにしろ作り手である自分たちでほぼなんでも決めることができる。この作品をどこでどうしようと全くの自由なのである。(上映を検討したいという劇場や美術館、その他の場所があれば、連絡ください。資料を送ります)。

もしかしたら私たちは、手痛い失敗をするかもしれない。どうしようもないほど落ち込むかもしれない。喧嘩したり、決別したりするかもしれない。作品を作ることは時にとても辛い結果を産む。世の中の不特定多数の人のたくさんの評価がもう全部ダイレクトにぐさぐさと自分に返ってくるからだ。それと同時に、見てくれた人が喜んでくれたなら、この上ないほどの大きな喜びと出会いを得られるだろう。それは本の執筆と同じだ。私はこの12年、いやってほど喜んで、いやってほど落ち込んで、泣いて、またいやってほど喜んで。。。ずっとその繰り返しだった。

何が待ってる?失敗や挫折? 歓喜? 出会い?涙?
わからない。
でもその全ては、最終的に自分のものになる。挫折や失敗は、何かに挑戦し、冒険をしてきた証なわけだから、長い目で見たらとても幸せなことだろう。

結局のところ、程度の差こそあれ、わたしには「冒険」をしない人生というのは考えられない。私はこれまでも常に行き当たりばったりに仕事を辞めたり、別の国に引っ越したり、旅したり、新しいことに挑戦したりしているうちに、40代も最後の年になってしまった。幸いにして、家族や友人を含め、私を止めるような人も特にいないから、まあこのまま未知なるカオスに向かって堂々と突き進んでみようと思う。自分は、いったん荒野に踏み出してしまえば、そこから地道にひたすら前に進むことに関しては、まあまあ得意な方だと思う。

越境について

対談の最後に、角幡さんは突如いま物理的な越境を考えてる、と話しだした。私は、え、あんなに北極で探検しまくってるのに、どういうことだ??と思ったのだが、要するにカナダかどこかに移住を考えているらしい。しかも彼が行きたいのはバンクーバーとかではなく、北極圏の村で、いったん行ったらもう日本にはほとんど返ってこないだろうとのことだった。
(え、うそ、寂しい!と言ったら、「どうして?付き合ってるわけじゃないのに」というので思わず爆笑してしまった。ですよね)

とにかくそう言われてみると、角幡さんは外国に住んだことはないのである。なんだか意外だ。「川内さんは具体的に越境してきたじゃないですか」と言われて、そう言われれば、そうかもと思った。

現実的には、角幡さんといえども、この年齢で祖国を捨てる様にして外国に移り住むとことは簡単ではないようだ。いまどうやら家族の説得中らしい(そりゃそうだよなあ)。

なんか、いいなあと思う。何がって、この年になって、今手にしている多くのものを手放す勇気が。多くの人が、いま持っているものを手放すことを恐れている。だから次に進めないでいるし、だから逆に撤退できないでドツボにハマる。

私も必要だったら、いつでも多くのものを手放せる自分でいたい。本当に大切な者以外は背負い込まず執着もせず、軽やかに越境していける。そう思っていたいものだ。それもまた自分をしなやかに、そして心を自由に保つための鍵だと思う。

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