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有緒という名前の話

先日またひとつ歳をとった。
だからとかそういうわけでもないが、いや、むしろなんにも関係ないけれど、有緒(ありお)という名前について書いてみる。
ご存知の方も多いが、有緒はペンネームである。
どうしてペンネームにしたのか。その質問は、インタビューなどでもはや数えきれないほど答えてきたけれど、案外どこにも書かれていないので、自分自身で書こう。

ペンネームをつけたのは、「パリでメシを食う。」(幻冬舎)という人生初の本を出版することになったときだ。もう本文の校正が終わり、カバーのデザインができてきて、いざ入稿!という時点で、ペンネームにすることを決意した。
担当編集者のOさんは、「ノンフィクションをやるならば本名がいいと思いますよ」と強くアドバイスをしてくれたけれど、もはや気持ちは揺らがなかった。

なにしろ、私はもともとの名前に対して全くしっくりこないものを感じていた。元の名は、世の中にまあまあよくある名前だ。その名をつけてくれたのは、父。そして、彼の名は「寅幸(とらゆき)」。
なんと変わった名前なのか。
いや、変わっていたのは名前だけではなかった。なんでかしらないけど、家にかかってくる電話に「ハロー!」と英語で出たり(英語は全く話せない)、自分を「タイガーハッピー」と呼びながら踊ったり、朝からフライパンを持ってガンガンと鳴らしながら家族を起こしまわったあと、自分はさっさと競馬新聞を持って喫茶店に直行する、そんなゴキゲンな男だった。そんな変わった名前を持つ変わった男が、長女につけたのは平凡な名前。なんでだろう? ずっと謎だった。

しかし、ある日父は、「お前の名前は本当は『とんこ』にしたかったとさらりと告白した。
え!? とんこ!?とんこ!?とんこ!?
12歳くらいだった私は、大きな衝撃を受けた。
どうやら、「とんこ」は、幼い頃の父のニックネームだったようだ。
「とら」から「とんこ」へ。
どこでどう変化したのかまでは知らないが、父はこのニックネームを愛し、最初の子どもにつけてあげようと思いついた。
すんでのところで「とんこ」になる局面を変えたのは、母だったらしい。29歳の母よ、グッドジョブ。とにかく私は、『とんこ』じゃなかっただけで、一生感謝すべきなのかもしれない。間違いない。

それでも私は自分の名前はしっくりこないままに生きてきた。変えられるものならいつか名前を変えたいという薄暗い願望を抱いていた。
ああ、いまこの文章を父が読んだら、子どものように「なんで、なんで」とへんてこな踊りを披露ながら私に詰め寄ったことだろう。しかし、父はもうこの世にいないので、全く気にする必要はない。母は健在だが、母は何事にも私の決断を尊重してくれる自由なタイプの人間なので、特に気にしないだろう。

38歳で本を出版する機会が巡ってきたとき、私は「これが最初で最後のチャンスだぞ!」と奮い立った。そして、自分なりに考え抜いたあげく、自分に「有緒」という名を与えた。自分のなかに「有る」ものから何かを始める(緒)、という意味だ。何しろ、私は国連職員を辞めて新しい何かをはじめなければいけなかったのだ。何ができるかはわからないけれど、いま自分の中に有るものを大切にして、わたる世間の荒波やら長引く日本の不況やら生き抜くぞー、ぬおー!という気持ちだった。おお、こう書くと随分かっこいいな。いささかかっこよすぎるくらいなので、この辺にしておこう。

実は、ありお、というその響きにはまったく由来がないわけではない。アメリカに住んでいた頃、仲の良い友達数人が、私の名前があまりにも発音しにくいことから、みんなでアメリカンネームをつけようともりあがった。ビールを飲みながら、3分くらいで「ARIO」に決定した。ARIOは、不思議なほどしっくりきた。だから、「有緒」というのは、古い友人たちがつけてくれた名前でもある。

当時、映画プロデューサーのSさんには、
「なんでそんな誰も読めない名前にしたの?読めないと覚えてもらえないから、本当の名前のがよかったじゃん!」
と言われたが、いまでは私のことを「有緒」と呼んでくれる人がだいぶ増えた。Sさんも、私がこんなに執念深く本を出し続けるなんて思わなかったのかもしれない。




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