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午前四時の試写室 (中編)

映画作りについて少しずつ書き溜めています。以下の文章は、『図書』(岩波書店)7月号『午前四時の試写室 (前編)』として掲載されたものです。この続きは、同誌の 10月号に掲載される『午前四時の試写室(後編)』で読むことができます。後編のnoteでの公開は10月以降に行う予定です。

 前編では、自主制作したドキュメンタリー映画『目の見えない白鳥さん、アートを見にいく』の完成までの顛末を書きつつ、「この原稿が世に出る頃には、どこかの街の映画館で上映されているかもしれないし、そうではないかもしれない」としめくくった。中編ではさらなる詳細とその後の展開を書きたい。

 遡ること二〇二一年の一二月。
 「Hさんが出てくる場面はいらない。その次の場面も。えーと、Hさんのシーンは全カットで」
 そう言ったのは、ある配給会社のプロデューサーだった。西荻窪のレンタルスペースで、編集が八割ほど済んだプレビューを見てもらっていた。
 心臓がきゅっとなった。あの……どうしてですか、という言葉を絞り出すのがせいいっぱいだった。Hさんは主要な登場人物のひとりで、「カットで」と言われた発言は、映画の流れのなかで不可欠なピースだと考えていたからだ。
 「なんかさ、この言い切っている感じが嫌なんだよね。好きじゃない」
 好きじゃない? そんな理由? わたしたちは大いに混乱した。
 「わたしたち」というのは、わたしと映像作家の三好大輔。制作中のドキュメンタリーは共同監督作品で、企画・構成はわたしが、撮影・編集は三好が担当していた。

 まあ、その後の展開は前編で書いた通りである。いったんはHさんの部分を大幅にカットした形で再編集したのだが、「やっぱりHさんが登場しない映画なんて考えられないよ」と三好は静かに言った。
 この映画制作は誰かに依頼されたものではない。予算も一部の助成金をのぞけば自己資金である。しかも、五〇代にして初めての劇場用映画への挑戦である。どうしても、自分たちが作りたいように作ってみたいという気持ちは消せなかった。配給会社にはお詫びとともに丁重な断りのメールを送った。ああ、いま自ら退路を絶ったんだ、ということを前後の文脈もないままTwitterに書き込み、爽快感と不安を肴にして、深夜まで焼酎を飲み続けた。二〇二二年の二月のことだ。

 気持ちの整理はついたものの、映画・白鳥号が進むべき航路はまるで見えなくなった。いくつかの配給会社にコンタクトしたのだが、あるプロデューサーは「主人公の闇とか暗さとかも見たい」といった内容に関する助言はあったが、どうも配給に関しては煮え切らない。ドキュメンタリーを専門的に配給する会社の方からは「アートに関心がある層が動くと思いますので、興行としてはある程度成立すると思いますが、私達自身が関わることで、より広がっていくイメージを持つことが出来ませんでした」というすっぱり直球の断りのメールが返ってきた。
 これら一連のできごとに、わたし以上にこたえているのは三好だった。ある天気の良い午後、わたしは彼を焼き肉屋に呼び出し、「大丈夫、次にいこう」と声をかけた。最初の書籍『パリでメシを食う。』(幻冬舎文庫)を世に出す前に、数々の出版社に「売れない」という理由で断られたという話をした。
 「そうだよね」と彼は小さく笑顔を作り、焦げた焼肉をビールで飲み込んだ。三好はいつも物事に動じないタイプなのだが、その日は本当に口数が少なくなかった。わたしには「本業は文筆家である」という逃げ道があるが、映像作家として生きてきた彼は全てを正面から受け止めざるを得なかったのだと思う。
 マズい。とてつもなくマズい。なにしろこの時点でまだ映画は完全には出来上がっておらず、オープニングタイトルの挿入や、音や色の細かい調整、エンドロールの内容確認などが残っていた。どれもこれも手間も根気も必要な作業だ。このまま気力をなくしてしまうと、映画の完成すらできないのかも……。
 そういうわたしも、実は意気消沈していた。同じ頃に書籍『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』(集英社インターナショナル)が大宅壮一ノンフィクション賞にノミネートされていたのだが、全く喜べない選評と共に賞を逃していたのだ。まあ賞なんて別に関係ないけどさ、と思いつつも、どこかで受賞して風向きが変わることを期待していたのだろう。映画・白鳥号はもはや完全に座礁するかに見えた。

 ある日、思った。もしかしたら、本当に「自主配給」しかないのでは……?
 その言葉を聞いたのは、数ヶ月まえに映画監督の笹谷遼平さんと雑談しているときだった。
 「この映画ならば、きっと自主配給でいけますよ」という何気ない一言を思い出したのである。自主配給というのは、自費出版と似たものだろうか。要するに自分たちで映画館をブッキングしたり宣伝したり、ということだろう。
 いやいやいや、そんなの無理だよな、とも思った。だってわたしたちにはなんの経験もなければ、コネもないし。
 しかし、その時、ちょっと前に訪れたある映画館が頭に浮かんできた。神戸の商店街の一角にある元町映画館。映画ファンの地元市民が作り上げたミニシアターである。そもそも、わたしが最初にここを訪れたのは雑誌に記事をかくためだった。このとき、わたしは大胆にも支配人の林未来さんと同席していた映画ライター江口由美さんに自分の映画のスクリーナー(先行試写版)を見てもらえませんかと頼んだのだった。ふたりは「いいですよ」と軽やかに答え、すぐに「完成したら上映したいです」と前向きなお返事をくれていた。
 そのメールを読み返した。そうだ。たとえ、他の全ての映画館に断られても、わたしたちには元町映画館があるじゃないか。そうひらきなおると急に一本の航路が見えた。

 急速にエネルギーが湧いてきた。進むべき島が見えたいま、そこに向かって必死に漕げばいい。来世で冒険家を目指しているわたしだから、がむしゃら漕ぐのは得意なほうだった。
 さらに、その航路を明るく照らしくれる人物が現れた。日大芸術学部時代の先輩で、大手配給会社で働くAさんである。大学卒業以来ただの一度も会っていなかったのだが、わたしたちが映画をちまちまと作っていることを知ったM先輩が「とにかくみんな飲もうぜ」と言い、再会を果たした。Aさんは大学時代と変わらず艶やかな黒髪をしていて、美しい蟻に似ていた(蟻が美しいかどうかは問題ではなく、Aさんに似ていれば全ての蟻が美しいと思う)。Aさんはわたしたちの窮状を知ると、とても親身になってくれた。

「副業禁止だから直接は関われないけれど、わかることはなんでも教えるよ」というその言葉に偽りはなく、メールや電話、リアルなミーティングを通じて、ありとあらゆるアドバイスをしてくれた。Aさんと話してわかったことは、宣伝物の製作や映画館用のデータ(DCP)の作成など、まだまだお金がかかるということだった。うーん、参った。そもそもマイナスのスタートなのに。もうこうなったら、クラウドファンディングという最終カードを切るしかない。目標金額は二三〇万円である。

 大勢のひとに協力をしてもらう以上、一箇所でも多くの映画館で上映することを目指したい。まずは全国のミニシアターのリストを作り、わたしと三好で手分けをして映画館へのアプローチを始めた。
 多くの劇場からは返信すらなかったが、それでもクラウドファンディングが始まる頃には、上田映劇(長野)、東京都写真美術館ホール(東京)など計五つの劇場で上映が決定した。
 そこに、ビッグニュースが飛び込んできた。書籍『白鳥さん』がYahoo!本屋大賞ノンフィクション本大賞を受賞したのである。これが強い追い風となり、目標を超える四四〇万円の支援が集まり、劇場も九館まで増えた。
 二〇二三年二月一六日にはシネマ・チュプキ・タバタを皮切りに劇場公開が始まった。その日は、夫がコロナ陽性でぶっ倒れ、自分もぎっくり腰で起き上がれないという悲惨な状況だったのだが、心は晴れやかだった。長くて複雑で未踏のチャレンジが、ある到達点を迎えていた。
 「これから三ヶ月くらい、ほぼ毎日、日本のどこかで映画が上映されるんだね、すごいね」と三好が言ったときは、えっ、と思った。これまで必死過ぎて気づいていなかったけれど、スケジュールを見ると、その通りだった。
 四月末には神戸の元町映画館でも公開され、白鳥さんを含めた三人で舞台挨拶にでかけた。林さんたちに、上映館が一七館まで拡大したことを報告し、中華料理とビールで乾杯した。林さんはそれまで長期で入院していて、わたしたちの舞台挨拶の日と職場復帰が重なったというなんとまあダブルにめでたい日になった。

 翌日は、ふと思い立って岡本太郎の《太陽の塔》を見にいった。カバンのなかには『自分の中に毒を持て』(青春文庫)が入っていた。《太陽の塔》は数えきれないほど写真で見ていたはずなのに、実物の作品だけが持つ奇妙なエネルギーが自分に奥底に注入されたようだ。太郎の言葉がかつてないほど響いてくる。

駄目になる方、マイナスの方の道を選ぼう、と決意してみるといい。/そうすれば、必ず自分自身がワァーッともり上がってくるにちがいない。それが生きるパッションなんだ。

イバラの道に傷つくことが、また生きるよろこびなのだ。
(『自分の中に毒を持て』より)

 そうだったのか。いまわたしは生きる喜びに満ちている。

(かわうち ありお・ノンフィクション作家)

※映画『目の見えない白鳥さん、アートを見にいく』(アルプスピクチャーズ)は、全国映画館で公開中です。詳細は、映画公式サイトhttps://shiratoriart.jpをご覧ください

前編はこちらへ。


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