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父の話を書くか、書かないか

3年前に出版した「晴れたら空に骨まいて」が来年の春ごろに文庫化されることになった。この本は、空や海に散骨をした登山家など5人とその家族や友人のエピソードをまとめたものだ。

読者のためにというよりも、自分のために書いた。人はどうやって親しい人を見送るのだろう。それが知りたかった。実は、私たちも父の遺骨を福井県若狭湾に散骨した。しんみりした日ではなく、友人たちとバーベキューをしたり泳いだりと、とても楽しい夏の1日だった。

文庫化にあたり、この際だから、自分も父について書いておきたいという気持ちが湧き上がった。父が亡くなってもう14年。どんどん薄れていく記憶を前に、少しでも形として残しておきたい。別に、文字として残すだけながらば、わざわざ世の中に公表しなくてもいいのだが、いまの自分はなかなか忙しく、締め切りがない原稿はいつまでも書けそうにない。自分に締め切りを作るためにも、文庫掲載を目標に書くことを決意した。

もうひとつ理由はある。この際なので、自分がよく受けるある種の誤解のようなものを解いておくのもいいかもしれないと思うようになった。私は、「恵比寿」という街で生まれ育った。よく住みたい街ナンバーワンにもあげられるおしゃれな街だ。そのせいか、よく恵まれた家庭に育ったのではないかという思う人も多い。この間もamazonのレビューにけちょんけちょんなものがあり、私はレビューは全然気にならない方だが、なかに、ん?と気になる記述があった。

 深みがない、誤植がある、教養のなさ云々はその通りとしかいいようがないが、気になるとこはココ。

あらすじも少女マンガのようだが、親がかりで日大芸術学部を卒業(おそらく学費だけでも700~800万)、芸術学部ならば、その他、経費もいろいろかかるだろう。
ジョージタウン大学は年間約800万円程度を納入しなければならない。それが2年半で、その前に語学学校に通っていたというから、それも数百万単位の仕送りがあったのだろう。
親は会社の社長だと本文中に書かれている。
本人の頑張りや運、そして人柄も相当あるのだろうが、親がそれだけ教育費を出せる環境にあってこその、アメリカ留学、そして国連勤務だと思う。
貧乏人のひがみでスミマセン……。
お金があれば、アメリカにも留学できて経済修士号取れて国連で働き、その後は作家として活躍する夢のような生活が実現できるのが実情なんですよ。お金がないと惨めですね(笑)

なるほどー!と目が開かれる思いだった。
何も書かないとこういう誤解を受けてしまうのか。それ以前にも、ある人物に徹底的に嫌がらせを受けたことがあったのだが、その人が共通の知人に語ったところによると「ああいう恵まれた人を見ると腹が立つ」という理由だったそうだ。この種の偏見とか先入観っていうのは、あんまり気分の良いものではないのだが、そういうキラキラした少女漫画のような人生を歩んでると思われるようなものしか書いてないとしたら自分の責任だろう。さらに読んだ人を惨めな気持ちにさせるとしたら問題だ。確かに私は、人生の明るい面を書くのが好きだ。私はいつも陽と陰だったら、陽に惹かれる。それは私の性格なのだろう。

というわけで、このレビューのおかげで、いやいや、わざわざ口に出さないだけで、コトははそこまで単純ではないのですよ、と言いたい気持ちにさせられた。私にも陰の面があり、暗い時代があり、たくさんの悲しみや苦しみがあった。そういうことは書かないでやりすごすこともできるのだけど、でもまあ私の人生の別の面、ということで書いてもいいのかなあ。そして、その苦しみや悲しみの多くが実は父に起因するものなのだ。

もちろん、たぶんどの家にも大なり小なりの複雑さや難しさはある。たぶん、文字にしてみればどうってことない。どこにでも転がるほどのよく聞く話だ。

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小さい頃の私は、眠りにつく前のわずかな時間に、父が生まれ育った頃の話を聞くのが好きだった。父は、福井県若狭湾のなかでも「おおい町」というかなり辺鄙な村の漁師の家に生まれた。当時の「おおい町」は、陸路でのアクセスがなく、船に乗っていくしかなかった文字通り陸の孤島。住人の多くが漁などの海の恵みで生計を立てていた。しかし、父は海の仕事が肌に合わず、一七歳のときに家出した。

「船酔いがひどくて漁ができなかった」と父は冗談混じりによく言ったものがだが、理由はそれだけではなかったらしい。父の父(祖父)は、とにか海の男らしく気性が激荒く、酒癖も悪く、長男である父は夜中に酒を買いに行かされたり、ぶん殴られたりと大変に苦労していたらしい。そして高校に進学することは許されなかった父は、家を出ることを決意した。

「そのとき、おばあちゃん(父の母)が6000円を持たせてくれたんだ」と父はいつも嬉しそうに語った。私の想像の中では、父は夜汽車に乗っていたけれど、実際には夜だったのか昼だったのかはいまとなってはわからない。

 その家出のエピソードこそが私が一番好きな話だった。

 二番目に好きなのは、父が家出して大阪で働き始めた頃の話だ。父はガソリンスタンドでバイトをしながら、文学の専門学校に通ったという。たぶん今は存在しない学校だと思われるが、「筒井康隆とか有名な作家が講師としてきていた」というのが父の自慢だった。父は梶井基次郎の『檸檬』が大好きで、父自身も檸檬っぽい小説を書いていたらしい。その後、父の弟も追いかけるように大阪に出てきて、二人で貧乏生活をしながらなんとか暮らしていたらしい。ただ私が生まれた頃の父はもう文章は書いていなかった。父が文学を志していた、それだけが私の記憶にはっきりと刻まれた。

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 その後、父は23歳で母と結婚。どういうわけか広島や岡山に住み、最終的には東京の恵比寿に引っ越してきた。当時の恵比寿はそこまでのイケてるエリアではなく、ビール工場が裏手に控え、土手にはタンポポが咲き、改札に駅員がひとりだけいるような鄙びた小さな街だった。そこに到るまでに色々なことがあったはずだけど、父が好んで話すのは、家出した日のことと大阪の文学学校の二つの話。

というわけで、まずはそのことから書き始めたが、今後の展開はどうなるのか。また気がついたらnoteに書くかもしれないし、書かないかもしれない。

だって、死んでしまったとはいえ、家族のことを書くのはこそばゆい。
父がこのような形で書かれることを望んでいたかはわからない。だから、できれば書かないでそっとしておきたいと言う気持ちもなくもない。それでも書くのは、やっぱり自分のためだろうか。少しジタバタしてみようと思う。


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