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真昼の花火という夢 《満天の桜が咲く日》が現実になった日

6月26日月曜日。
夢は諦めなければ現実になる。再びそれを教えてくれた日となった。ついにアーティストの蔡國強さんが、いわきの四倉海岸で昼花火を打ち上げたのである。

昼花火は、夜に打ち上がる光の花火とは異なり、色のついた火薬を使うことで、まるで空に絵を描くような手法で、この日の作品は《満天の桜が咲く日》というタイトル。大掛かりなスペクタクルだが、実は広く世に告知せずに、地元いわきの人々や、蔡さんの友人達に見守られながら決行された。そのため報道を見るまで知らなかった人も多く、ピンクの煙の大爆発を見て仰天し、消防車を呼んだ人も多いらしい。

私は幸いこの日に決行されることを知っていたので、当日は海岸に降りる階段に座り、ゆっくりと見ることができた。

《満天の桜が咲く日》は4万発の花火による壮大な歴史絵幕のような構成で「第1章 地平線 ー白い菊」「第2章 白い波」「第3章 黒い波」「第4章 祈念碑」 「第5章 桜花満天」「第6章 桜の絵巻物」の合計6幕。なにもない地上波かた蔡さんのライブの説明とともに打ち上げらる花火は、ほとんどの人が見たことのないものだったに違いない。(以下の美術手帖の一連のツイートで全幕の様子が見られます)

一回ごとに、ため息のような歓声が漏れていく。それは通常の花火大会とも異なる、アートの魔法にかかったような歓声だった。美しいなあ、すごいなあ、という声があちこちからあがる。いや、本当に。今まで写真や画像で何度も見てきたけれど、実物の迫力と美しさは圧倒的だった。

とはいえ、私自身は、なんというか全く違う感慨の中にいた。それは、本当に夢は実現できるんだな、30年の友情の物語が今日も続いているんだな、というような感慨だ。生きている間にこれが見れてよかった、とも思って涙が出そうになった。

さっそく上がった美術手帖などの記事に、実現までの詳しい経緯がある。

これは、まさにその通りなのだが、大きくスポッと抜け落ちている部分がある。それは、「満天の桜が咲く日実行会」、つまりは、いわきの人々が織りなすバックヤードの物語である。実行会の会長は、『空をゆく巨人』に出てきた志賀忠重さん。通称、すごいおっちゃん。

私が書いた『空をゆく巨人』は志賀さんたち「いわきチーム」と蔡國強さんの30年の友情を追ったものだ。その最後のシーンにまさに「いつか昼花火をいわきでやりたい」という夢を語る部分で終わる。実は私が蔡さんに初めて出会った2016年の初頭の日も、蔡さんと志賀さんはその話をしていた。しかし、その後「いわきの昼花火」は実現しそうになっては、頓挫を繰り返す。2年くらい前も良いところまで行っていたのだが、コロナ禍のロックダウンで花火が輸入できないなどの問題がおこり、断念した。だから、去年の秋に「今度こそ、いわきの海岸でやれそうだ」という話を聞いたとき、まだちょっと半信半疑というか、「なるほど、できるといいですね」というようなスタンスだった。

それが、あ、これは本当にやるのかも、と思ったのは、去年の秋に蔡さんがいわきに現れた時であった。コロナの間、ずっと日本にこれなかったため、とても久しぶりの再会。そして、みんなで一緒に四倉海岸に下見にいったとき、蔡さんは目を輝かせて「素晴らしいです!ここなら、できます!」と言い、元気に歩き回った。そして、すぐにスケッチを描き、具体的なプランを描き始めた。志賀さんたちは、それを「ふんふん」と聞いていた。その日は実際に志賀さんの知り合いの花火師の人たちなども来ていて、聞いているうちに、わ、なんかできそう・・・と思ったわけだが、むしろそんな感じなのは私くらいで、他全員は「実行」になんの疑いもはさまず、志賀さんたちはひたすら実現に向かって着実にそして精力的に動き始めた。

そこから、6月26日月曜日の当日まで、乗り越えなければいけない壁がたくさんあった。なにしろ、ひとつの海岸全体をジャックして、火薬を大量に使い、花火をあげるのだ。そして、昼花火の実行は蔡さんにとっても日本では初めて。当然、熟練の職人も存在しない。そこには、規制の壁、オペレーションの壁、人員の壁、材料の壁、資金の壁…ときっとあったと思われるが、他の自分の仕事に常に翻弄されていた私は、詳しいことは実はあまり知らない。ただ、オペレーションの中心となっていたある関係者の一人が、前日の夜に「志賀さんの突破力が本当にすごかったです、僕自身はもう何度もできないかなと思いましたが、志賀さんはあらゆる方向からその壁を超えていきました、すごく勉強になりました!」と言っていたのが印象的だった。そうなのだ。私が本当にすごいなあと思うのは、この爆発イベントにはプロのイベンターが入っているわけでもなく、本当に蔡さんや志賀さんの類まれなる才覚と仲間の力で実現に結びつけてしまったのである。その実行力と困難な道のりをゆくそのプロセスを楽しむ力がすごい。

志賀さんは時折私に電話をかけてくれて、いまどういう状況にあるかを話してくれたのだが、「いやあ、けっこう大変だよねえ!」という声はいつも弾んでいて、生気に満ちていた。

今回の《満天の桜が咲く日》の「第1章 地平線 ー白い菊」は、(本を読んだ人ならわかると思うのだが)、1993年に実行に移された<地平線プロジェクト>へのオマージュである。これは約5キロの導火線を海上に浮かべて火をつけ、炎で地球の輪郭を描くものだ。その当時、たくさんの人々に協力を仰ぐために、志賀さんは蔡さんに「やっぱり、芸術は難しいと思われてはダメだなにかわかりやすい言葉せ説明できねえかな」と相談し、蔡さんはひとつの言葉を書いた。それが、以下のもの。

この土地で作品を育てる
ここから宇宙と対話する
ここの人々と一緒に時代の物語をつくる

そこから、蔡さんと志賀さん率いるいわきの人々は、ずっと褪せることのない時代の物語を作り続けてきた。震災や原発事故の悔しさを忘れない、故郷にを美しい場所を残すという「いわき万本桜プロジェクト」と「いわき回廊美術館」もその壮大な物語ひとつ。今回の「第2章 白い波」から 「第5章 桜花満天」「第6章 桜の絵巻物」はそれらを直接的に表現したものだ。

そう、2018年に出した書籍の方では昼花火は「いつか実現したい果てなき夢」として描かれたわ
が、あれから5年が経ち、夢は現実となった。

その後、いわき回廊美術館に舞台を映し、レセプションが行われた。そこには、サンローランなどの関係者や東京から来た美術関係者、地元の人々、地元の小学生、美術館ボランティアの姿もあった。田んぼをバックにしたステージでのレセプションは、ほのぼのした時間だが、その裏で必死になり、大活躍していたのは、志賀さんの家族と友人・ボランティアが構成する「台所チーム」である。なんと、その桜の山の台所で、前々日から250人分の料理を準備していたのだ。海産物の焼き物や素麺、ジャガイモのローストなど、素朴だけど心がこもったローカル・フードの数々。私はまたしても、これだけのイベントをボランティアだけで仕切ってしまうのだから、本当にすごいなあ!!拍手!と感激した。

蔡さんと妻の紅虹さん
海外から来たお客さんもたくさん
国立新美術館館長の逢坂さんと志賀さん

私自身は、正直にいえば、ほぼなにも準備作業を手伝うことはできなかった。ただ、当日のレセプションで、司会を務めた津田大介さんや志賀さんの通訳を務めさせていただいだけだ。プロの通訳ではないので拙い通訳ぶりだったけど、少しだけでもこの「時代の物語」の一部になれたのが嬉しかった。

実行会や台所チーム、ボランティアの人々

さてさて、今週からは国立新美術館で蔡國強さんの大規模な個展が始まる。

蔡國強 宇宙遊 一〈原初火球〉
会期:2023年6月29日~8月21日
会場:国立新美術館 企画展示室1E

こちらの展示タイトルは、本を読んでくれた人はピンとくると思うが、1991年に芹沢高志さんが企画した伝説的な展示<原初火球>(P3 art  and environment)から取られたものだ。

<原初火球>はその後蔡さんが世界各地で行うことになる爆発イベントの設計図のような存在だ。そして、今回の国立新美術館での展示を企画したのは、元横浜美術館の館長で、現在の国立新美術館館長の逢坂恵理子さんである。逢坂さんは、蔡さんの作品を初期の頃から見続けてきた人のひとりである。

『空をゆく巨人』の時の取材に協力してくれた人物や物語が一同に介すという唯一無二と思われるこの機会に、私は静かに興奮している。これから何がおこるのだろう。また奇跡のような友情物語の新しい章が始まるのだろうか。


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