【オイサラバエル】樋口円香──終わりと美について【感想・まとめ】
本記事は『アイドルマスターシャイニーカラーズ』のpSSR【オイサラバエル】樋口円香についての読書感想文です。
本カード以外にも僕が知っている作品においては無限にネタバレをします。
前書き
こんにちは。
Twitterにて「美」警察をやっているありれるれんと申します。
この度はシャニマスくんが「美しいものの話」と言って「美」を主題にしたコミュを描いたらしいことを受け、本官が巡回に当たりました。その結果は案の定であります!
つきましては、2022年春の「美」健全理解運動の一環として、【オイサラバエル】樋口円香をより正確に理解、もとい「美」の誤用を抑止することを目的として、理解によって侵害される「美」を持たない青年〜大人のオタクを対象に「美」を説明します。
「美」の概説
「美」という字は様々な意味を持っているとされている。哲学においても様々な点において取りざたされてきたものである。
しかし、「美」というものは明確な意味を持っている。それは主体たることだ。
主体というのは、「行為する主体」と「その対象となる客体」という人間の認知の方法における概念である。
主体は行為すると認識されるものであることを条件としている。つまり「美しく」あるものは概して「生きている」と認識されるものであることが求められる。
さらに、この世界において生きているものが「美しく」あるためには、環境に淘汰されてなお生き残る生存に優れた性質を持つことが必要となる。環境における競争の動的平衡状態の結果として、世界に存在することができているものは、普遍的かつ優位にある性質を示している。
この意味の成立過程により、「美」というものは環境からの淘汰を、つまり「美」たることのできなかった生命を背後に持っている。だから「美」は輝きの強さだけの深い陰影を持つことを意識させる。そのため美は死と不可分である。
また「美」たる主体それ自体も、この世界の時間の作用、老いや風化、腐食といった実際の損壊の他に、人間の認識による客体化によって毀損される。
さらに何より「美」は、このような美たらしめんとするものに厳しい世界に存在するからこそ「美」なのだ。あらゆる点において、死だけが生を生たらしめている。終わりだけが美を美たらしめている。
「美」とは生であり、すなわち死なのだ。
そうして「美」は、普遍的な、あるいは優れた性質をも指し示し、それでいて生や死と密接に結び付いた。
幽玄に舞散る桜も、青々と伸びる夏草も、微細な水滴をその身に纏った地面の厚い花弁も、目を血走らせた奔馬も、殺意が結晶して妖しく輝く刀も、切り裂かれた肉体から迸る赤い血潮も、皆、皆、美しいのだ。
ちなみに蛇足を付けると、キリスト教というものは主体たる欲求を原罪と規定し悪魔化することによって成立しているので、美を必要として飢えながらも美を否定するために精神において酷く鬱屈としており、その信奉者は美について甚だしい認知的不協和を持っている。
……そして、「美」が主体であるというところに、「美」への憧れが達成されない理由がある。
なぜなら、人間にとっての理解というものは、存在を存在として認知的に客体化する手続きを必要としている。「存在を定義する」あるいは「存在を認識する」というのは、価値や意味によって存在を客体化することなのだ。
そんな「美」への理解がある人間がどうなるか。彼は自らが「美」であることができたとして、しかしながら、そのときには「美しい自己」の理解という客体化が加わり美たる要件を損なう。
水面を覗き込む美少年の死の逸話は、端的に美への理解とそれによる美の転倒を物語っている。
美を知って、美に憧れているならば、決して美たりえない。
そして美を表現しようという芸術の試みは、つまり詩は、言葉が美を客体化する手続きを取るが故の不可能に数多の挫折を繰り返して、それでも男の、美への愛憎極まる恋の故に原始の昔から今日に至るまで接続している。
人間が美しくあるためには無知である必要がある。そしてそれに気付いている人間はその理解によって美しくある資格を喪っている。
だから人間にとっての美とは、主客の分かたれぬ子供の、そして白痴のものだ。
【オイサラバエル】樋口円香の概要・まとめ
ノクチルの主題は同一化を願う衝動としてのエロースだ。
最早説明の必要はあるまいが、ユニットにおいての樋口円香は、これまで浅倉透への強烈な憧れを抱え、そして【UNTITLED】──見ることも想像すること名を喚ぶこともしない厳密な崇拝──の態度を取ることで浅倉透を客体化することを殊更に避けてきた。そして、その崇拝の対象は憧れることによっては決して達成不可能な美そのものであった。
例えば【Landin Point】シナリオにおいてはナルキッソスの主題が描かれた。アイドル活動において彼女が体現していた自身の美の存在に気付いてしまう。
そして客観的理解という認知による客体化によって、自身の美を喪失した彼女の苦しみは、プロデューサーの行為による更なる客体化によって解決した。
そして彼女は自身のアイドルとしての行為において、美しい自分に近づくための美学というものを確立する。アイドルとしての彼女の美学は、認知には常に客体化の手続きが存在することを前提とし、それでも自己の行為においては他者にどのように見られ評価されるのかを気に留めないように試みるというものである。これはごく単純な方法であるが実際には不可能である。しかし、アイドルとしての行為にのみ限局するのであれば、存在としての彼女がプロデューサーの行為を伴ったより強力な承認に依拠することで実現できるものであるのかもしれない。
本コミュ【オイサラバエル】樋口円香においては、アイドル活動からやや離れた彼女個人の内面性に焦点を当てる。美への憧れによる強烈な客体化を受け、結果として表出した婉曲な崇拝の態度において、彼女が沈黙と無視を貫いてきたものが語られる。
そして、彼女にとって甚だしく重要な地位を占めることとなったプロデューサーという存在が何者であるのかについて懊悩する。
だから、これは、他の誰でもない樋口円香の話で、どうしようもなく重要な話だ。
──これは美しいものの話。
序:美についての提起
彼らは撮影準備のためにできた僅かな暇に話をしている。
話題はある彫刻の魅力の理由である。
ここでは、プロデューサーの口から、『ミロのヴィーナス』を通して撮影現場の監督が語った、欠けたところを持つ作品の演出的効果が説明される。
曰く、欠けた部分を持つことで、それを補うように完璧なものを想像するのだと。『ミロのヴィーナス』は時間による風化などの結果としての欠損てあるためその限りではないが、この未完の状態を意図した技法を西洋美術ではノンフィニートというらしい。
そんな監督の話に対して、樋口円香は魅力の理由に黄金比を挙げたらしい。
そしてその意見を踏まえた上でも、プロデューサーは自分の目に映る彫刻の姿だけではない何らかが彫刻を魅力的にしていると語る。
完璧でないことによって完璧だと感じられる逆説的な演出効果を指し「皮肉だ」と返す樋口円香に対して、プロデューサーは、逆説的に完璧なものは目には見えないのかもしれないと考えた。
そして樋口円香は、その彫刻というものを自身に重ねた。
そしてプロデューサーは「永遠に、そうエターナルに──」とクソ痛いことを言い始める。
そしてその言葉と共に話は終わったが、折良く撮影準備が整うことはなく、気まずい沈黙が流れる。
その中で、彼女は話が腰砕けであることを指摘し、彼は笑った。
静かな空間に響く時計の秒針は「美しいものの話」という彼の言葉と共に止まる。
序では、『ミロのヴィーナス』という彫刻──偶像およびアイドル──を評価することを通して、存在としての「美」についての問題提起を行った。
このコミュにおいては、「『ミロのヴィーナス』の欠けた腕に完全な形態を想像」する理想の投影という認知的客体化に依拠した方法に対して、その強度が比較的小さい普遍的法則に美の本質を求める言動を通し、美を崇拝し美を毀損することを拒む樋口円香を描く。
また一方で、「エターナルに……」などの発言から、行為に及ぶ際のプロデューサーがあまり自己を客観視していないように見える様子を描いている。
さらに、ややまとまらない話や、終わりの明確でない暇というものによって、終わり、つまり死と美の密接な連関が暗喩される。
廃墟、エントロピー:終わりと美と虚無について
撮影現場の監督から、時間と秩序の論理が語られる。
彼が言うには、「時間は人が作ったものを壊すようにしかできていない」らしい。
撮影前に、舞台となるかつてホテルであった美しい廃墟についての説明を受けた二人は、それが理解できたのか話し合う。
プロデューサーは、監督の言った美の性質が樋口円香に理解できたのかを聞いている。
樋口円香は少しの沈黙を挟み、「あまり」と答えた。そしてその理由に、撮影場所を指して、「この辺りは手入れがされている方」だったことを挙げている。
そして監督の発言に基づく一般的な予想として彼女は話を続けている。
撮影現場の監督が言うには、この廃墟に崩れたサンルーフがあり、それは時間による自然の腐食作用によって天井としての機能を喪い、吹き込んだ風雨によって、かつての床は泥に沈み、人工物であった場所には草が伸び、そしてとても綺麗であるらしい。
これまで、シャニマスくんは様々な事情により「美」を「綺麗」と形容してきたことから、ここでいう「綺麗」もまた「美しい」ことである。
「意味を尋ねようともした」のだというが、彼女は「撮影の前だった」からと答えることになった。
ここは嘘が多いので行間を読む必要がある。
彼女の「美を理解することへの拒否」という態度が端的に表れている言葉として、彼女は「分かる」とだけ言うことがある。しかし、このときの彼女は何を対象として分かると言っているのか、その詳細を語らない。
これは、「美」の理解が「美」の客体化によって行われ、即ち美が損なわれることを知っているがための認知的態度である。彼女が「美」について理解し、意識し、そして表明できることは、「美」が「美」であること自体の感覚的な物事に限局している。
ここでの彼女は撮影現場の監督の言葉について、「あまり理解ができなかった」という嘘になり切らない嘘を吐いた。思想信条上の理由で、確かに彼女は「理解できない」し、それがなぜ理解できないのかを自分に説明し意識することもできないが、理解しようとしてしまえば理解できるのだ。彼女は正確には理解を拒んでいる。
そして、これが無意識の嘘であるが故に、「もし仮に指導者の発言が理解できなかったのならば、自身はそれについて尋ねてみようとするだろう」という自然な自分の行動の規則と、しかしそれをしなかった過去との矛盾が彼女にとっては突然起きることになった。
ここで、プロデューサーは少し沈黙した樋口円香に対して助け舟を出すように、その場の彼女が「わかります」と答えていたことを教える。これが彼女のためを思っての気遣いであるか、それとも純粋に思い当たったのかは明らかでない。
その言葉をきっかけに自身の曖昧な嘘に妥当な着地点を見つけた彼女は、「まあ、撮影の前だったので」と誤魔化した。
また、「わかります」と答えた際の樋口円香の考えにおいては、監督が説明する美への理解を拒絶しつつ、しかし確かに存在する美の魅力についての共感を「分かる」とだけ意識し、表現する彼女の態度が端的に見て取れる。また、現場監督から「理解してくれる子でよかった」という言葉をかけられたことへの後ろめたさや、その言葉によって自己の「美」が客体化されんとすることへの忌避感を抱いているように思われる。
彼女は少しの沈黙の後に「意図を汲みたいと思ったことは嘘じゃないけど」と更に嘘を重ねる。
そしてそんな嘘に気付いてか気付かないでか、彼は「今からでも尋ねてみれば」と提案する。
そして今度の彼女は、撮影を理由にするという先ほどの回答を手にしていた。「もう撮影は終わったので」と苦慮することなく妥当な嘘を続けることができている。
さらにそれに答える彼は「ん……」と曖昧である。
そして、この時間は撮影現場の撤収が終わるまでの僅かで曖昧なものであることに言及しつつ、ゆっくりしていいと声を掛けた。
そして、彼女は、自身を客体化する「美」という苦しい話題を逃れる機会にあって、しかしその強烈な客体化に伴うだけの大きな不安から、自分への蛇足の嘘──自己の認知を歪めるものを付け足している。
それは「監督の美についての理解を感性によるものだと見做した」という偽りである。彼の語る「美」というものは明快な理論であり、厳然たる理屈なのだ。そして理解し理屈であるという認識によって、限りなく凌辱されるものでもある。
彼女は「美」を保存する試みのために自己を偽り、偽りを掣肘する激情という高潔な自己の美しさは、「多分」という曖昧によって誤魔化した。
プロデューサーはこれに対しても「……そうだな」と同意による承認を行った。
そして彼は、撤収の現場にあって、休むためにと椅子を出すことを申し出た。これもやはり不安な状態の彼女を思ってのことなのか、単なる常識に基づいた振る舞いなのかは不明である。そして「床が抜けるかもしれない」からと廃墟を徘徊しないよう言い渡す彼の言葉も何を思ってのことなのか分からない。物語としては、【LandingPoint】の『yoru ni』からナルキッソスの主題から引用があるため、「美」への理解による自己の「美」の毀損についての警告を意味しているように読める。しかしそれでいて抜けた床から落ちることでの怪我を心配してのことでもあり得る。
彼は素直な自分の意思で言動に及んでいるのか、それとも彼女や社会の常識に媚びるように振る舞っているのかが分からない。
いずれにしても、「美」への接近はあらゆる意味での危険を伴うものだった。
そして彼女が何かの危険に接近することを危ぶんでか、疲れた彼女を思ってか、社会常識に照らしてか、彼は椅子を取りに走った。
彼女は一人プロデューサーの帰り、あるいは現場の撤収が終わるのを待つ。その束の間に、彼女はこの美しき廃墟について述懐する。
時間と、終わりと、そして人間について考える。彼女は美と、美がもたらす莫大な虚無とを想像し、そして想像しきれなかった。彼女はありのままの、美しい廃墟に在りし日の姿を想像してしまう。美しいはずの虚無は、想像する理想の過去で汚すことを避けられなかった。
ドライフラワー:明確な終結と美の亡骸について
樋口円香はライターからインタビューを受けている。
「堅苦しい空気にはしたくない」というライターの言葉を受けて、彼女は「学校の友達みたいなつもりで」と話し始めた。ライターも「頑張って若返らないと」と軽口を返す。
ここでは、演じる客体を意識した存在ではなく、主体としてありのままの美しい自分を見せてほしいということを意味するライターの要望をを把握しておきながら、それを掌中で握りつぶすような嘘を吐いて、演技や愛想に満ちた人当たりの良い対応をする彼女を描く。
これは前話で見せた、「美」への憧れと忌避によって、強烈に客体化される彼女の存在の描写である。
一方で、プロデューサーは今回の撮影の予定が今のインタビューで終了することを聞き及ぶ。これまでの終わりの明確でない状況に対して、明示的な終わりが告げられる。
さらにスタッフから「飲み物でもどうか」と人当たりの良さと気遣いという客体の態度が暗示される。
そのままインタビューに場面は転換し、スタッフの彼がそうしたような気遣いによる嘘によってインタビューは進行した。
先刻に見たドライフラワーの感想が語られる。彼女は「いままで花って枯れてしまったら終わりだと思っていた」が「花の色がちゃんと残っていて」、「茶色じゃない、うちで枯らしてしまったものとは違う」ことに驚いたと語る。
彼女は嘘になり切らない偽りを次々に口にしている。過去から今に至るまで彼女は花は枯れてしまえば終わりだと思っているだろう。花の色が変わらないことには多少の注意が向いたに過ぎないだろう。そして、生花からは目を背け続けてきた。
彼女がここで言う心からの一言は、ただ「枯れてしまうから、咲いている時が余計に大切に思える」という言葉だけだ。
インタビューを見守るプロデューサーのもとに断わったにも関わらずアイスコーヒーが手渡される。ここでは客体の犯す失敗を暗喩する。
そして彼女の曖昧な嘘と言い切れない偽りは、ドライフラワーというものは死骸であるという認識を被覆するために言った「(枯れているのに色が変わらないことに)印象が変わった」という嘘になり切らない曖昧な地点から、社会常識に照らす客体のもとで自然な論理的接続によって展開し、「ドライフラワーは生きている」という決定的な嘘に繋がってしまっている。
ここでは「美」を客体化することへの忌避と、深い憧れがもたらす強烈な自己の客体化を描写する。
そしてドライフラワーに抱いた彼女の率直な意見が回想される。
素晴らしいドライフラワーを作るためには、種子から目を出し茎を伸ばして蕾を付け、そうしてその生命の全ての時間を費やして咲き誇る花の繚乱たる発露、そしてその美を、しかし殺めることで美の影に帰属させるさえなく吊るすのだという。
実を結ぼうと花を散らさぬように、生命を生命で無くすために、日から遠ざけ、あるがままの天地すら覆し、死からさえも引き離して、その生命の時間がただ待つだけの時間であると言い放つように、安穏とした場所でただ曖昧に乾いていくのを待つ。
美に対するこれほどの冒涜は世界を探しても中々見受けられない。
そしてそんな風にして作られたドライフラワーを見て、プロデューサーは「こんなに綺麗なのか」と言っている。
そして、その彼の言葉にあるものが、今後のインタビューに向けた彼女の感想を操作するための打算なのか、それとも見目麗しさを評しているのか、それとも美を感じているのか、彼女には分からなかった。
ノンフィニート:美の逆説と断絶
この仕事が連載であり、これが初めから最後の撮影であることが分かった状態だったことを提示している。
そしてプロデューサーは「道が悪」くて「揺れる」ことや、「山奥の撮影だけど電波が入る場所」であることを伝える。このような気遣いという振る舞いは、媚態を含みそのようなことをする彼は「美」とはかけ離れているように見える。
そして樋口円香は返事をしながら、そんな話は「聞いていないけど」と述懐する。
そして彼は、終わることが分かっていたはずの連載の終了には「残念だ」と続けた。
そして彼女は、どこまでいっても分からない彼の心の在り方について、心中で問いかける。
彼の言葉のどこまでが本当なのか、──つまり素朴な心の内を愚直に表現しているのか、それとも自分のするような客体に依拠した曖昧な嘘をついているのではないか。
──彼は美しいのか、それとも美しくないのか。
彼は会話をした。
空き時間にした『ミロのヴィーナス』のノンフィニートの話が楽しかったことを語る。
彼女は終わりを殊更に強調して「美」に近付こうする打算があったのではないかと確認するために、「この仕事が終わったら」「くだらない話はなくなる」のかと問いかける。
しかしこの確認は、彼はきっと仕事が終わったとしても「くだらない話をするのだろう」と妥当な答えを出した。
皮肉の体は偶然に守られた。
彼は、打算を疑ってしまう彼女のような深い憂慮を持たずして、ごく単純かつ即時的に「分かっていたにしろ連載が終わることがただただ残念で、そして今振り返ってみれば終わるからこそその時々が楽しかったのかもしれない」と考えているのだろう、と考えた。
プロデューサーはドライフラワーのカフェのことも振り返った。彼女を「イメージしたブーケ……というかスワッグか、」を「直接受け取りたい」と言っていたことを、何ら疑っていないように彼女には見える。
彼が瞬間と現実にのみ生きているのであれば、それに対する彼女は、どうしようもなく時間や理想に囚われている。
それならば、自身の美を激しく弾圧する時間や想像から断絶されている彼は、やはり美しいのではないだろうか?
それならば彼女はそんな彼を理解するべきではない。それならば彼女は理解しきったりすることはない。
目的地に到着した時の彼は、長時間の移動を労い、足元に注意するよう声を掛けている。これも即時的な彼の振る舞いなのであれば、それは美しく、それなら彼女がそれに触れることはない。
美は全てを拒絶している。
車から降りた彼女は、……美というものについて考え始めた。
彼女が憎み、彼女が憧れ、──何より彼女が恋をする、美しいもののことを。
完結することで定義され、終結することで風化する……そんな人間の世界に、それでも美しいものがあるとするのならば、それは永遠に完結しないものなのではないだろうかと。
完結しないのであれば定義されることもない、定義されないのであれば何かとして認識されることもない……。
……ノンフィニート──完結しない、不明で、曖昧で、それ故に定義されず──それ故に美しいのもの……。不安に立脚する美……。欠けたものの想像さえも許さない透明なもの。終わりすら欠き、時間から断絶した──美しいもの。
この話では、客体を多分に含みつつ、それでも【LandingPoint】においては純然たる行為者として彼女を客体化した主体であることは確からしいプロデューサーに向けた問いかけを行う。
そして、そんな曖昧な美しさを持つ彼の姿には、逆説によって、かえって確かな「美」があるのではないかと考えた。
──未完結によって定義されない、不安に立脚した美。不安定であるが故に安定し、曖昧であるが故に確実な美を見出す。
これまでのコミュにおいて描写されてきた彼女のプロデューサーへのエロースの主題を踏まえていながら、ここでは、しかし彼と彼女は決して同一物ではない全く別の存在であり、彼女にとって、プロデューサーと樋口円香が、それぞれが「美」と、「美」でないものであることが確認される。
美しいもの:美しいもの
彼女は彼女の考える美を、生命の息遣いを思い述懐する。
しかし一方の彼女は、客体化の産物である過去の言動に客体化され、大切にできようはずもない「美」の亡骸を、美しくない作り物の笑顔で受け取った。
そして美しくない彼女は、曖昧で確かな「美」について考えていた。
合流した彼らであったが、プロデューサーは──美しい男は、彼女が受け取ったこの残骸を彼女の手から取り上げようという。
その必要はないと告げる彼女であったが、本当は彼がこれを見たかったのだと言った。
その間にも、彼女はどうして不安な美は永遠であるのかを考えている。
そして彼女は表象と定義の不安が、しかしその論理において厳然とした美であることに考え至る。
彼は、命ですらなくなった曖昧な骸の束を抱えた。
彼は、それを見て彼女をイメージして作ったものであることを感じるのだと言う。
「怖気の走る」ような物言いをする彼は、何かの打算を持っているようには思えないようでいて、しかしそれは喜んでいるように見えない彼女を明るくしようと思ってのことかもしれない。
そして彼は言葉を継いだ。
どうして彼がそう思うのか、美しいこの男が、曖昧で、それ故に確かに美しい言葉を口にする。「種類とか見た目とかでそう感じたわけじゃなくて」「この花が持つ魂というか──」と。
そして、彼は目を閉じた。
不安で、曖昧で、不完全な表象から離れる。
そうした方が「この花が見える気がする」と。
──美しい彼と、彼女の思考が接続した。
序において語られたものは、定義できない透明な美であり、それは彼の感じた見えない美で、それは曖昧な不安の中に潜んだ美で、美への恋に盲いた目でしか見えない美で……──そして美しい彼は、彼女と一つであり、それならば……彼女もまた美しかった。
彼は「いいものをもらったな」と言った。
そして彼女はただ「はい」とだけ答えた。
彼女は美しい。
そして美しい彼女は自らの美しさを理解しながら、なお曖昧と不安によって確かに美しいままであった。
──そして彼女は、彼女の美の象徴に、遂に少しの意識を向けた。
感想
分かりにくい?
文句があるなら、実存と不安に触れるタイミングで美についての話をし始めたシャニマスくんに言ってくれ。
物語を書く人間は軽率に美の話をしないので、この話はまあ気合入ってると思う。
また、このコミュは完全に樋口円香の視点での話で、プロデューサーは心の知れない存在として描写される。
美についてざっと紹介しながら、不安について述べ、内包し、そしてエロースによって解決する。
さらに、最後には美たることで、これまでに彼女にとって触れられざる存在であった浅倉透に接触することまでした。
バチクソ重要コミュじゃねぇかYO!これが限定なら流石に怒ってたぞ。新規プロデュースシナリオの追加はしばらくなさそうだな?
この先の彼女のシナリオで浅倉透を燃やしたりするのだろうかと先を考えると気分が良くなってしまうが、この辺りにしておこう。
シナリオ外で言うなら、spineくんの仕草や声優さんの仕事がリーダーとして優秀で、表現としてやっぱり……最高やな!
疲れたのでここまでにさせてもらうが、結局の感想としては、……美しいコミュだったよ。
サンキュー高山、お疲れ様でした。
ありれるれん