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★『近代日本人の発想の諸形式 他四篇』 伊藤整

その時代を生きる人のための言葉だけでなく、
未来の人に残したい何かが表現されている。

岩波文庫版の初版は1981年ですが、実際にこの本の内容が最初に発表されたのが昭和28年から33年(1953~1958年)なので、すでに70年もの月日が経っているわけですね…。

移り変わりの早い出版業界で、いまだに絶版にもならずに版を重ねているということは、それだけ、読み続けられているということでもあり、初版からの年月の積み重ねだけでなく、この点を加味しても、すでに古典、といってもよい作品といえるでしょう。

『近代日本人の発想の諸形式』

さて、著者の伊藤整(いとうせい・本名はいとうひとし:1905(明治38)~1969(昭和44)年)の名前を聞いて、その略歴や作品をスラっといえる人は、研究者をのぞいてはあまりおられないと思います。

かく言う私も、学生時代に一かじりしただけの情報で小説家、というよりも評論家、文学史家としてのイメージが強い作家です。
戦前に『チャタレイ夫人の恋人』という作品を翻訳して出版したところ、わいせつだということで裁判になったことのほうが強く記憶されているぐらいで、その小説としての作品に触れたことはありませんでした><;;

そんな伊藤整氏のこの著作には、全部で5つの論文が所収されています。
その5つは…

・近代日本人の発想の諸形式
・近代日本の作家の生活
・近代日本の作家の創作方法
・昭和文学の死滅したものと生きているもの
・近代日本における「愛」の虚偽

この標題だけみても、面白すぎる…と思うのは私だけでしょうか?

特にこの文庫の標題にもなっている、「近代日本人の発想の諸形式」は、現代の日本人、自分自身の心の持ち方とその表現の仕方に重なる部分もあって、あらためて、日本人の精神性について考えさせられる契機となる論文だと思いました。


たしかに文学作品は、作者の個人的な所産である限り、そこに現れた「発想」というものは、ある特定の個人の価値観であり、美意識であり、心の傾向、といえるでしょう。
しかし、その作者も彼らが生きた時代の状況や、生まれた国、受けてきた教育などと無関係とはいえません。

作者が意識的に再構成した、自身が捉えたそのような価値観や美意識以上に、むしろ、それを支える無意識の部分、言い換えれば、作者が意識せずに
期せずして作品に表れてしまっている部分こそが、同時代の読者にとってだけでなく、後世の読者にとって興味深く、また大切なメッセージになるのかもしれません。

そしてそんな、その時代のごく一般的な日本人にとって常識ともいえる時代の空気や雰囲気、言葉には特に現れなくても、違和感を感じずに共有されている精神的な領域にこそ、その時代の精神の本質があらわれているといえるのではないでしょうか。

伊藤整は、この論文のなかで、そんな、作家がその作品を執筆したときには
意識していなかった部分に光をあて、それをその時代の作品に共通して現れた当時の日本人一般の精神性と捉え、その様相を述べています。

その結論としては、大まかにいえば、少なくとも主な文学作品に現れた近代日本人の精神性は、封建制が徐々に崩れ始め、社会主義、共産主義の流入
といった大きな思想の転換期を迎えても、産業革命や社会主義革命を経た西欧のようには変わらなかった、ということです。

そしてその理由には、自分とは異質な他者や、社会的な問題に対して、どう解決に向けて関わるのか、いわゆる社会性の確立が、作家──当時の知識人においてさえ、十全に果たせなかった、というところにあるようです。

 日本の知識階級者が、論理を真の人間形式の土台と考えていないこと、無
 の認識の力強さに魅入られているということが分かる。
 即ち、この思想は、市民社会の人間の組み合わせ以前なる家族や友人の間
 の直感的調和は作り上げ得るが、その先に出て行かないのである。
 (同書p53)

 社会の組織づけへの努力が論理的実践として行われず、ともすれば、好悪
 をもって判断しがちだ、ということである。
 優秀なメンバアがそのような思考型を持っている社会では、ある傾向ある
 好みある偏執が発生すれば、それは驚くような速度で社会全体を覆って、
 その思考力を押し流してしまう危険がある。(同書p53)

『近代日本人の発想の諸形式』

文学作品は、もちろん楽しみのために読むもので他者からの強制を受けるものでは本来ありません。
また作者も、外からの強制によってではなく、自分の自由意志と、書きたい何かがあるから書くのだと思います。

しかし、伊藤整が本書で指摘しているように、近代日本において作家がその作品を書くことによって実現したかった世界とは、自己とごく限られた他者との関係性の中での調和的世界だったのかもしれません。
もちろん、すべての作家の作品を読まない限りは、そう断言することはできませんが…。

そして現代日本文学まで、それが継承されているのかは、同時代を生きる私にはまだよくわかりませんが、近代日本の一部を作家として共に生きた伊藤整が、同時代と少し前の世代の文学について語る言葉は、その時代を生きた人にしか感じることのできない空気感も含めて改めて知ることもあり、興味深く読みました。

また、伊藤整が分析した近代日本の精神は、それと地続きにある現代日本と無関係でないことだけは確かです。どの部分が継承されていて、どの部分が変化しつつあるのか、それを知ることも、現代に生きる私たちにとっては大切なことのように思えます。

文学はどこまでも自由な表現であり、書く側も読む側も、それが楽しいからする、ということに異論はないのですが、書かれた結果としての作品には、その時代を生きる人のための言葉だけでなく、未来の人に残したい何かが表現されているのだと思います。

その意味で、伊藤整がこの本の中に残してくれた言葉は、作品を読む手がかりにもなり、その楽しみをさらに増してくれるように思えました。

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