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差別について思索してみた

縁あってNHKの「100分de名著」で取り上げられたフランツ・ファノンの「黒い皮膚・白い仮面」を視聴する機会を得た。その第二回まで観たところ、東京五輪・パラリンピック組織委員会の森喜朗会長が女性蔑視発言で辞任するというドタバタ劇が起きた。

そういうこともあって、少し「差別」について思索してみようと思った。

ちなみに、フランツ・ファノンは、フランス領マルチニーク島で生まれた黒人の精神科医である。白人文化の価値観の中で育ちながらも、黒人であることを理由に言われなき差別に直面するうちに、人種差別について深く考えるようになる。人種差別をする側の人だけでなく、差別される側の深層心理を掘り下げたり、背景となる社会構造に切り込んだりしながら、差別とは何か、なぜ差別が起きるのか、どうすれば差別を乗り越えられるのかを「黒い皮膚・白い仮面」に著した、らしい(未読なので「らしい」としか言えない)。

改めて振り返ると、「差別」ってなんとなく近寄りがたいテーマな気がして、これまで極力考えないようにしてきたんだなと感じた。

差別について考えると、どうしても後ろめたい感覚が内側で起こる。差別的な発言をしてしまう人のことを正面から非難できない自分がいる。自分も一歩間違えれば差別的な発言をしてしまうかもしれないという不安が常に心のどこかにある。いや気がついていないだけで、すでに普段の何気ない会話の中で差別的な発言をしてしまっている可能性さえあるのではないかと自分に自信が持てなくなってしまう。

どこまでが差別で、どこまでが差別ではないのかの線引きが自分にはあまり整理できていないこともある。

加えて、育ってきた環境から、差別意識を生み出しかねない価値観や深層心理が自分の中にも刷り込まれてきたんだろうなとも感じる。

自分が言葉に出さないまでも、心の内側で人を差別する「隠れ差別主義者」かもしれないという前提を持ち、常に自分の見方を戒める必要があるだろう。

なぜ差別が起きるのか?

人を差別することで得られるベネフィットがあるとしたら、それは「自分の方が相手より優れている」という優越感や有能感なのかもしれない。

そこには、相手を見下し、貶めることで相対的に自己の優位性を確保しようとする背景心理がある。俗にいうマウンティング行為に近い。

さらにそれは、結局のところ、他者と比較することでしか自分の存在意義や立ち位置を確認できない心の弱さにつながっているんだなと気づいた。

他者の人間としての尊厳を貶めることでしか、自分の存在価値を守れない。そういう人間の弱さ。加えて、そんな人間心理を生み出す社会構造になっていること。これが差別が起こる要因なのかもしれない。

ここまで考えて、私たちが差別主義者にならないための処方箋を整理してみる。

第一に、「一律的な価値基準」から「多様な価値基準」へ
一つの価値観に囚われていると、それ以外の価値観を持った人を排除してしまいかねない。自分が一様で一律的な価値観の中で育ってきたことを自覚する必要がある。多様な価値観を受け入れる視点を持つ。

第二に、「類型化」から「個別化」へ
「あの人はこんな人」と勝手にレッテルを貼り、類型的に評価することのリスクを改めて認識する。色眼鏡をかけず、ジャッジすることなく相手をありのまま受け入れる視点を養うことが大切。

第三に、「競争社会」から「共存社会」へ
「勝つか負けるか」「自分が上か、他人が上か」の競争社会では、構造的に自分の優位性を証明しようとする心理が働きやすく、他者への差別意識が生まれやすい。違いが差別を生み出すのではなく、違いが価値を生み出すような共存社会へとシフトする必要がある。


整理してみると当たり前のことばかりになってしまったが、自分で思索して納得してここに辿り着いたことに意義があると信じよう。そもそも人に上下関係はなく、違いは不完全性を生み出すものではなく、多様性や可能性を生み出すものである。違いがあるから人は尊い。それぞれが個性的でかけがえのない存在である。

差別について考えることで、改めて、人生とは、人というかけがえのない存在が、かけがえがなく限りのある時間を過ごすからこそ、はかなく、尊いものになるのだと実感させられた。

こんな偉そうなことを書きながらも、つい自分の価値観を子供に押し付けてしまっていることに気づき、冷や汗が出た。理想と現実、思考と行動を一致させることがいかに困難なことか。螺旋階段を行ったり来たりの一進一退の日々だな。

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