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「痛み」をみつめていく。その先に。

生きていると、ときどきぽかりと「不安」や「さみしさ」を感じることがある。

それはまるでぽかんと口をあけた真っ暗な穴のようで。その穴を見つめるのがこわくて、なんとか埋めようと、必要以上に食べてみたり、身体を傷つけてみたり、仕事を必要以上に頑張ってみたり、恋人に自分のさみしさを埋めてもらおうとしたり。

私はそうやって「痛み」を見ないふりをして、でも「痛み」に散々振り回されて、これまで生きてきました。

私にとって「痛み」とは、まっくらな穴のようなもので、なにか他のもので埋めないと、正気で生きていけないような類の恐怖の象徴なのでした。


最近、ほんの少しだけだけど、埋めるのではなく、その穴の中に入って、痛みを感じてみようと思いはじめています。

「さみしさ」を感じてみる。
「痛み」を味わってみる。
「せつなさ」の中にただ、いる。
「不安」を抱きしめてみる。

うまくできないことも多いのだけれど、
その穴の中に入ってみると、
過去の泣いている私がいたり、自分を責める声が響いていたり、私自身の中にある「傷」を見つけます。

「痛み」は私の「傷」のありかを教えてくれる。

そうやって考えると「痛み」もそんなに悪くはない。私に大切なことを教えてくれていると思うのです。

もう埋めないで、見ないふりをしないで、ちゃんと「痛み」と共にいよう。

その先に何があるかはわからない。
けれど、少なくとも「痛み」をちゃんと見つめたときに、おそろしい恐怖の象徴だった穴は、抱きしめることのできる傷へ変わる。

久しぶりに強く痛む夜に、穴を埋めたくなる衝動も感じながら、
今日こそは、無理やり埋めようとしないで、この「痛み」と一緒にいよう。
そんなことを今思っています。

この痛みがどんな傷のありかを私に教えてくれているのか。
傷が教えてくれることに耳を傾けたい。
まるで祈りのように、この文章を書いています。

この夜を「さみしさ」や「不安」と共に過ごしている、どこかの知らないあなたにとっても、どうかあたたかい夜になりますように。


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