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【エッセイ#14】迷宮で笑う白いドレスの女 ー傑作映画『過去を逃れて』について

1947年のアメリカ映画『過去を逃れて』は、いわゆる「フィルム・ノワール」というジャンルの映画です。「フィルム・ノワール」とは、1930~40年代に製作された白黒のアメリカ犯罪映画のことを指します。チャンドラーやハメットのハードボイルド小説とも連動した、暗い探偵映画とも言えるでしょう。その中でも、『過去を逃れて』は、古典の中の古典と言うべき名作、という評価が現在固まっています。

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この映画は、探偵、悪女、胡散臭い大富豪、殺人と欲望の絡まる複雑なストーリー等、魅力的な犯罪映画の要素を兼ね備えています。しかし、そんな前情報を仕入れて見ようとする観客程、最初から戸惑うことになります。
 
冒頭はアメリカの田舎町。男が尋ねてきて、ジェフという男を探しています。ジェフが勤めるガソリンスタンドに行くと、そこには口のきけない男の子がいて、彼の場所を教えてくれます。ジェフは岩場で恋人と一緒に釣りを楽しんでいます。だが、男が来ると知らされると、暗い影が差したように引き上げます。車で男の元に向かう道中、ジェフは恋人に因縁の過去を告白します。
 
犯罪映画という割に、長閑な田舎町と、美しい森の中の岩場が広がります。テンポもゆったりしています。ジェフを演じるのはロバート=ミッチャム。大柄で眠そうな眼と深いバリトンの声を兼ね備えたこの俳優は、どこか暗いものを秘めている感じは確かにするのですが、同時に、深刻そうに悩んでいる感じも、過去に怯えている感じもあまりありません。
 
彼のどこか催眠的な声で回想に入ると、実は彼は探偵で、昔都会にいて、ある夜富豪に依頼を受けたことが語られます。ここで、観客は犯罪映画っぽくなった、と期待することになります。そう、冒頭から続く違和感は、ここまで暗い都会の夜がでてこないことだったのです。


 
フィルム・ノワールの大きな条件は、都会の夜ということです。ビリー・ワイルダーの『深夜の告白』、ハワード・ホークスの『三つ数えろ』、オットー=プレミンジャーの『ローラ殺人事件』等、殆ど全編が夜という印象で、探偵役の男が犯罪に巻き込まれるという点で共通しています。
 
大都会の喧騒の中、白いトレンチコートに、ソフト帽をかぶり、煙草をくゆらせるハンフリー・ボガート(『三つ数えろ』の主役です)のような男が、いかがわしい猥雑なバーに赴き、乱暴且つ不愛想に、ならず者や美女たちに聞き込みをしていく。

俳優ハンフリー=ボガート
ハードボイルドの登場人物のような
ダンディズム

いささか通俗的なイメージですが、まさにハードボイルド小説に出てくるこういう探偵に似合うのは、田舎町ではなく、何が出てくるのか分からない魑魅魍魎の蠢く、大都会の真夜中でしょう。
 
『過去を逃れて』に出てくる大富豪は、若い頃のカーク=ダグラス。若い頃から貫禄があるというか、後年『スパルタカス』等で主役を演じた頃と殆ど印象が変わらず、若々しい感じがしません。あのキンキン響く声も変わらず。

彼が昔別れた女を連れ戻すようにミッチャム演じるジェフに依頼すると、ミッチャムが聞き込みをした映像が出されることはなく、女の居場所をつきつとめてアカプルコに行ったことが明かされます。
 
観光地になっているアカプルコで、キャシーという名前のその女と出会うことになるわけですが、眼に見えるのは、明らかにセットと分かる街並みと、ちょっとエキゾチックな内装のレストラン。どう考えてもロケをするお金がなかったのだろうなと分かる映像で、またもや観客の期待は宙ぶらりんになります。

キャシーを演じるのはジェーン=グリア。目鼻立ちのはっきりした美女ですが、夢の女というより、気の強いタフな感じを受けます。彼女はこの映画の後はあまり有名作への出演はありません。
 
ですが、彼女が白いドレスを着て店に出てきた辺りから、映画は異様な輝きを帯びていくことになります。ミッチャムが彼女に惚れこみ、のっぴきならない事態を招いて、犯罪に巻き込まれていくことが回想で語られます。現在の田舎町の時制に戻ると、ミッチャムはその因縁の落とし前を着けるため、都会に戻ることになります。
 
ここから、前半の調子は消え、まさに都会のハードボイルドなノワールが展開されていきます。誰が騙して誰を殺そうとしているのか分からなくなるくらいのスピード感と、説明の省略、渦巻く陰謀と真っ黒な都会の夜。

そして、一気にストーリーが進んで、冒頭の田舎町まで巻き込みつつ、夢魔的なクライマックスを迎えた後、観客はようやく気付きます。自分もまた、このミッチャムのように、悪夢に飲み込まれてしまったのだ、と。

『過去を逃れて』
左:ジェフ(ロバート=ミッチャム)
右:キャシー(ジェーン=グリア)

 
つまり、ここで重要になってくるのは、ある種の落差です。どうしても、映画というのは、冒頭から、全体の雰囲気を感じさせようとします。先に挙げた3本の古典のノワールもそうですし、70年代にノワールのジャンルをパスティッシュしたロバート=アルトマン監督の『ロング・グッドバイ』もそうでした。

都会の夜と探偵という主題は、あまりに魅力的で、ストーリーの導入にも実に合うため、初めから都会の夜を見せる作品が殆ど。それがこのジャンルのお約束であり、パロディ映画等でも何度も繰り返されてきました。
 
『過去を逃れて』は、そうしたジャンルの規則に囚われることなく、田舎町での回想から始めます。田舎での男の穏やかな現在、優しい恋人を示すことで、暗い悪夢のような男の過去、宿命の悪女の闇が濃さを増していくのです。

闇の濃さと書きましたが、この映画には、光と闇で視覚的に印象的な場面は殆どありません。前回書いたカラヴァッジョのような、「絵になる」ショットもなく、淡々と程よい映像のショットを積み重ねていきます。オーソン=ウェルズの『黒い罠』のように、超絶技巧の長回し移動ショットも、バロック的な照明もありません。寧ろ、後半の暗い夜も、回想も、冒頭の田舎町と同じようなテンションで進みます。



そして映画を観終わった時、個人的に頭に残っているのは、アカプルコでの、ジェーン=グリアの姿なのです。これは不思議なことです。
 
大抵フィルム・ノワールで覚えているのは、夜の都会の、ニヒルな探偵の姿、あるいは、銃撃戦や、街角の闇に佇む美女。こうしたものは、『過去を逃れて』では印象は薄く、夜とは程遠い、白いドレスを着てつばの広い帽子を被った彼女が思い浮かびます。
 
それも、決めに決めた構図というわけではありません。フィルム・ノワールには、『飾り窓の女』のジョーン=ベネット、『ローラ殺人事件』のジーン=ティアニー等、文字通り絵として飾られて佇むヒロインが出てきます。『過去を逃れて』のジェーン=グリアは、こうと決まった絵になる姿が思い浮かばないのに、あの出会った時の真っ白いドレスがぼんやりと目に浮かんでくるのです。

『ローラ殺人事件』
殺されたローラ(ジーン=ティアニー)
の肖像画を見つめる刑事。
この後映画は悪夢的に二転三転する


これはつまり、この映画が、視覚的に見せ場となる派手な場面を避けて作られ、しかも、物語の「だれ」もなくきびきび進むからです。そのため、思い出すときにぼんやりとした印象しか思い出せないのです。



あるいは、こうも言えるかもしれません。この映画で重要なのは、視覚ではなく、私たちが感じて脳で作り出す全体の雰囲気なのだと。悪夢のような都会、そして、回想の中の美しい女性との出会いは、主人公のミッチャムがそう感じているからこそ、私たちに直接訴えかけてくる。

派手な爆発や銃撃戦で私たちの記憶を奪うことなく、悪夢の印象だけを残す。そしてそれは、視覚ではなく、私たちの感覚に訴える迷宮となり、その中で白いドレスの女の笑みが幻のように漂っている。
 
それはまるで、夢から覚めた私たちがぼんやりとしか夢の輪郭を思い出せないようなもの。あるいは、ぴりりと胡椒の効いた料理を食べた後に残る、軽い舌の痺れを伴う後味のようなもの。あるいは、私たちが自分の過ごしてきた人生を思い出すときの曖昧なイメージのようなものなのかもしれません。
 
そして、この映画を思い出そうとして、そういったことに気づくとき、『過去を逃れて』が、まさにフィルム・ノワールの傑作であり、私たちの人生にも似た感触を残す作品、つまり、芸術として最上級の作品の一つでもあることを理解することでしょう。


 
『過去を逃れて』を監督したジャック=ターナーは、低予算のホラー映画から、西部劇まで多様な映画を撮った職人です。『過去を逃れて』以外にも、豹の血族の女性と彼女の恋人の悪夢を描くホラー『キャット・ピープル』や、『私はゾンビと歩いた!』(すごいタイトルですが、原題のままです。そして、本当にその通りのことが起こります)等、題材はB級ですが、作品は一級品の映画を撮り続けました。

腕のいい職人が、余計な効果など考えず、真摯に物語を語ると、どんな題材でも素晴らしい作品となることを、身をもって証明しています。他の作品も機会があれば、是非ご覧になっていただければと思います。


今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイでまたお会いしましょう。


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