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究極のコスプレ絵画 -シャヴァンヌの魅力【エッセイ#43】

 ある作品を体験した時に「○○主義」だとか、「○○時代の作品」と思う前に、何の関係もないフレーズが思い浮かんでしまう場合があります。19世紀のフランスの画家、ピュヴイス・ド=シャヴァンヌの、とある絵画を観た時に私に起こったのが、そういう現象でした。

『聖ジュヌヴィエーヴの幼少期』
島根県立美術館蔵
恐らく私が見たシャヴァンヌ作品

 確か、彼の神話画、大規模な人数の神話的な光景が描かれた作品だったと思います。題材としては、ありきたりなもので、構図等特におかしなものはありません。しかし、一目見るなり、私が思ったことは、こうでした。
 
これは、完全なコスプレ絵画だ!
 
一体なぜ私はこんなことを思ったのか、その時はよく分からなかったのですが、よく考えてみると、シャヴァンヌの意外と珍しい、変な特徴に思い当たります。それは、絵画芸術のある一面を表しているように思えるのです。



シャヴァンヌは1824年、フランスのリヨン生まれ。若くして、イタリアでフレスコ画を学んだという、変わった経歴の持ち主です。印象派より一世代年上で、カテゴライズするのは難しいですが、「象徴主義」と曖昧に言われることはあります。生前人気があり、多くの大作壁画も残しています。

ピュヴイス・ド=シャヴァンヌ

 
例えば、代表作の『貧しき漁夫』のように、簡素な場面で、ちょっと感傷的に、うなだれる漁夫を描く。フレスコっぽい平面的な場面で、ある種の宗教画の雰囲気は伝わってきます。

『貧しき漁夫』
オルセー美術館蔵

 
あるいは、『希望』。白いドレスに、花を持つ、いかにも薄幸そうな少女。『希望』というタイトルも、分かりやすいというか、そういったタイプの絵を描く画家です。

『希望』
ウォルターズ美術館蔵

 
では、なぜ私は彼の大作神話画を「コスプレ」と思ったのか。全く別の日、インターネットでコスプレイヤーさんの写真を、たまたまぼうっと眺めているうちに、はっと気付きました。
 
それは、背景です。
 
コスプレイヤーは、衣装やメイクで、漫画やアニメのキャラを再現しています。それが本当に再現できているかは、勿論場合によるでしょうが、少なくとも、似せようという意志を持って、扮しているのは間違いないでしょう。
 
しかし、そうした人たちを、写真に撮った時、レイヤーさんたちの背後は、ほぼ必ず、現実の光景になってしまいます。コミケ等のイベント会場の時は特にそうです。コスプレイヤー自身の姿と、齟齬が生まれています。勿論、私たちは、「そういうもの」として、その写真を受け入れています。
 
シャヴァンヌの神話画で私が感じたのは、この、人物と背景の齟齬でした。即ち、衣装は古代風なのに、背景が古代とは到底思えないのです。

『聖ジュヌヴィエーヴの幼少期』(再掲)

 その神話画でも、人々の衣装は、十分に古代風だったのですが、彼らがたむろっている背景の自然が、まるで、ブルターニュかどこかの、ごつごつした岩場のある、貧相な土地でした。



例えば17世紀フランスの画家、クロード=ロランの神話画には、美しく鬱蒼としつつも、明るく開けた森があります。琥珀色の暖かい太古の光が降り注ぎ、澄んだ川辺にも草が生い茂ります。そんな中で、古代の衣装を着た男女が戯れています。

クロード=ロラン
『踊るサテュロスとニンフのいる風景』
国立西洋美術館蔵
ロランの神話画は典型的な「理想的風景」とされた

 それこそが、「神話画」というものです。それは、ラファエロから、ロラン、レンブラント、ルーベンス等、西洋絵画主流のアカデミックな巨匠たちには欠かせない光景だったはずです。

もっと言えば、古代を立ち上げるためには、衣装や人物以上に、こうした背景にある風景の印象が必要だということです。

ラファエロ『びわの聖母』
ウフィツィ美術館蔵
背景の簡素な山河も、よく人物と調和している


しかし、シャヴァンヌの絵画の多くには、こうした太古の神話的風景としての背景が欠けています。

『貧しき漁夫』の、侘しい川辺、『希望』の、やはりフランスの田舎のような、豊かには見えない草原。それなのに、人物だけが、半ば強引に、周囲から浮いた衣装を纏って、何かの象徴を負わせるようなポーズをとっています。

『羊飼いの歌』
メトロポリタン美術館
古代風の衣装、ごつごつした岩場

これは、思っている以上に、異様な光景なのかもしれません。例えば、以前取り上げたようなブーグローのような、シャヴァンヌと同時代の絵画アカデミーの巨匠たちの作品には、このような齟齬はありませんでした。

彼らの「なんちゃって古代のコスプレ」は、実は背景とよく溶け合っています。つまり、彼らは「古代っぽい」衣装をうまくひきたてるような場所をよく選んで描いています。そうした調和こそが、ラファエロらを受け継いだアカデミーの一種の矜持なのでしょう。

ブーグロー『小川のほとり』
個人蔵
シャヴァンヌの同時代の最高水準のアカデミー画家


 しかし、シャヴァンヌは、そんな調和をある意味無視しています。それは、彼がフレスコ画という、ラファエロ以前の技法や絵画に魅せられていたから、という気もしますが、確信は持てません。ブルターニュっぽい農村を愛していたわけでもなさそうです。

確かに言えるのは、シャヴァンヌは、こんな「変」な部分を持ちつつ、表面上は、感傷的で象徴的な絵画としてよく売れるレベルに、当時の人に受け入れさせたという点です。ある意味、これ程したたかな画家は、実はなかなかいないのではないのでしょうか。
 
それはまた同時に、背景を重視する神話的世界がもう成立しないことを、印象派に先駆けて、感じ取っているようにも思えます。また、当時は、映画が出てくる前、「活人画」という、古代の風景を再現する演劇のようなものが流行っていました。その模倣と言えるかもしれませんし、そうした意味で、時代の子でもあるとも言えるでしょう。

『諸芸術とミューズたちの集う聖なる森』
シカゴ美術館蔵
古代風の人々とどこか書割りめいた背景


実は、シャヴァンヌは後世の画家の間でも密かに(?)人気があり、ゴーギャンが称賛し、ピカソもその絵を模写していたといいます。
 
それは、もしかすると、変わった作品世界をいい意味でうまく鑑賞者に「押しつけ」、したたかに違和感なく受け入れさせるという、シャヴァンヌの、アカデミーとは方向性の違う技術のようなものを、感じ取り、身に付けたいと無意識に思っていたのかもしれない。そんな妄想もしてしまいます。神話的で感傷的な題材を描く画家なら、アカデミーを始め、当時山ほどいたわけですから。

そして、コスプレ文化が根付いた現代だからこそ、彼のそんな側面も見えてくる気もします。


 芸術作品は、決して、歴史を学んでその中に分かりやすく収まるものばかりではありません。作品を体験した時に感じる違和感のようなものを、よく考えてみると、その作品や作家の思わぬ一面が見えてきます。どんな作品でも、一度、先入観にとらわれず、自分の感じるままに体験することが、大切なことなのかもしれませんね。


今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイでまたお会いしましょう。


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