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青春が微笑する -シューベルト交響曲第5番の美しさ【エッセイ#52】

青春の音楽とはどのようなものでしょうか。私が思う条件は、どこか憂鬱さと気怠さを持ちながらも、溌溂としていること。そうした二面性が若さの特徴だと思うからです。同時に、緩やかで華やかな踊りを導くような音楽であってほしい。青春とは躍動でもあるのですから。
 
そして、クラシックであれポップスであれ、どんなに明るい曲を作れる音楽家でも、そんな青春を感じさせる曲は案外少ないように思えます。それ程、溌溂さと憂鬱のバランスを保つのは難しいことなのでしょう。
 
シューベルトの交響曲5番は、私が青春を感じる一曲です。名曲の多いこの音楽家の中で、実は数少ない、全編に多幸感が溢れた、優美な作品です。ビーチ・ボーイズの『ペット・サウンズ』と並ぶ、私の中での青春の若さを感じさせる音楽です。

フランツ=シューベルト16歳の肖像画
交響曲5番は3年後の19歳時(1816年)の作品


第1楽章、明け方の光のような管楽器の導入から、おずおずと入ってくる弦の美しさ。穏やかに、かつうきうきと何か始まるような旋律で曲は始まります。この優雅な美しさで、曲全体のトーンが決まります。
 
第2楽章はゆったりとした緩徐楽章。モーツァルトに匹敵するような、煌めく美しさですが、モーツァルトほど、何か焦がれるような儚い感触がないのが特徴です。

鄙びたファゴットの音色がウィーン情緒を誘い、穏やかな陽光の差す窓辺で転寝をするような、うららかな感興があります。
 
第3楽章はスケルツォ風。勇壮な軍隊風マーチになりそうなところですが、それでもどこか舞踏のような跳ねるリズムがあり、途中で挟まれる一筆書きのような可憐なメロディで、柔和な表情が加わっているのが素晴らしい。
 
第4楽章のアレグロは、全ての大団円になります。ハイドンやモーツァルトの交響曲の華やかなフィナーレを思い出させますが、彼らの快活さは、どこか、貴族的というか、王の主催する舞踏会のような、格式ばった華やかさがありました。
 
それに対して、シューベルトは、どこまでも親密で、ウィーンの古のダンスホールに、友達と一緒に来ているかのような心地よさがあります。その親密さが途切れないまま、華やかな余韻を残して曲は終わります。



何度かウィーンという言葉を使いましたが、実は、シューベルトは、クラシックの音楽家の中では数少ない、ウィーン生まれ、ウィーン育ちの音楽家です。

ユーリウス=シュミット
『ウィーンの邸宅で開かれたシューベルトの夜会』 1897年
ウィーン・ミュージアム蔵


モーツァルトは、オーストラリアの地方都市、ザルツブルグ、ベートーヴェンはドイツの田舎のボン、ブラームスはハンブルグ生まれで、バッハ、ワーグナー辺りはそもそもウィーンに生涯殆ど関係がない。
 
シューベルト以外の「生粋のウィーン子」のクラシック音楽家は、ワルツ王と呼ばれ『美しき青きドナウ』で有名なヨハン=シュトラウス二世ぐらいです(シェーンベルクら二十世紀の現代音楽を入れるとまた少し話は変わりますが)。
 
そして、この二人の共通点は、華やかなのに親密で、享楽主義的なところ。

それが、ある種の「ウィーン気質」なのかもしれません。シュトラウス二世は、基本的にどんな曲でもこの「ウィーン気質」全開なのですが、シューベルトがここまでウィーン的な陽気さを無邪気に発揮したのは、この交響曲第五番くらいに思えます。

というのも、彼の作品は、一筋縄ではいかない、暗さを持っているからです。



 シューベルトが生きた時代は、ナポレオンが失脚し、オーストリアのメッテルニヒが主導したウィーン会議によって、フランス革命以降の動乱が小休止した時代でした。

王権や旧体制が復活し、穏健かつ、後ろ向きで内向的な小市民的文化が発達した「ピーダ―マイヤー時代」と言われます。シューベルトのピアノ五重奏曲『ます』の雰囲気のような、清く正しく明るい市民像こそが、理想とされました。
 
しかし、当然ながら、それはかなりの抑圧を伴います。シューベルトの曲に時折恐ろしく暗く破滅的な部分があるのは、そうした抑圧を象徴しているように思えます。有名な歌曲『魔王』、弦楽四重奏曲『死と乙女』、歌曲集『冬の旅』、晩年のピアノソナタ等。

(歌曲集『冬の旅』暗い孤独の音楽)



また、彼の交響曲には、敬愛していたベートーヴェンのように勇壮かつ威風堂々と作ろうとして、空回りしてしまうようなところもあります。最後の交響曲第九番『グレイト』終楽章が、熱に浮かされたように引き延ばされて、終わりどころがなくなってしまうように聞こえるのは、よく言われるところです。
 
これに限らず、「無理をしているのでは」と思う箇所が彼の交響曲には多々あり、ベートーヴェンへのコンプレックスのようなものも感じさせます。こうした部分と生来の陽気さがぶつかりあってバランスを崩してしまったのが、有名な交響曲第8番『未完成』と思っています。
 
交響曲5番は、こういったシューベルトの暗い部分や無理に頑張った部分が殆ど無い、まさに奇跡のようなバランスの曲なのです。

実は、どのような事情で書かれた曲なのかはよく分かっていないのですが、それも問題にはなりません。彼自身の青春と、かつての華やかな音楽の都ウィーンを偲ばせる美しい情緒が破綻なくまとまっているのが、この交響曲第五番であり、美しい青春そのものが笑みを湛えているような音楽なのです。



 この曲の演奏には何よりも快活さ、踊れるかのような適切なテンポが必要に思えます。録音では、私は長いこと、カール=ベーム指揮、ベルリンフィル演奏のグラモフォン盤で楽しんできました。

ベームは晩年ウィーンフィルで指揮した盤もあるのですが、かなり遅くなってしまって、この曲の良さを壊してしまっているように思えます(同じ年代、同じ組み合わせのベートーヴェンの第九は、逆にその遅さが堂々として、非常に良かったのですが)。
 
ベーム壮年期のパワーと闊達さ、ベルリンフィルの武骨な音色の方が、ウィーンから離れても、かえって、古のウィーンらしさを醸しているように感じられます。それは、この曲の青春の感覚と合うからかもしれません。

青春とは、かつて本当にあったものではなく、今手にしていない人の心にある、幻のようなものでもある。その幻を投影するのが、この華やかな曲のように思えるのです。

(こちらは、1954年のウィーンフィルとベームの演奏。甘い弦の旋律が美しい。ベルリンフィルとのグラモフォン盤は1970年代であり、この演奏のベームはどこか瑞々しく軽やか)


今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイでまたお会いしましょう。


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