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偶然の歓喜 ー『第九』を楽しく聴く5つの方法【ベートーヴェン】

クリスマスも過ぎて、年末が近づいてきました。この時期になると、ベートーヴェンの『第九交響曲』が街でかかったり、年末のコンサートで演奏されたりしますね。

 今日は『第九』について、あまりこの曲やクラシック音楽を聴いたことがない方を想定して、いくつかのポイントに絞ってお話しようと思います。



 というのも、この曲はあの『歓喜の歌』の合唱だけが独り歩きしすぎて、いざ全部聴いてみると困惑してしまう、という人が多いように感じるからです。

 私自身は、この曲が本当に好きになったのは、ベートーヴェンや他の音楽を色々聞いたずっと後のこと。なので、好きだけど、過剰な思い入れはありません。だからこそ、この曲に困惑する方の気持ちも、分かる気がします。

 しかし、「クラシックの最高峰と言われて聴いたけど、何かイメージと違う」で、そのまま済ませてしまうのも、少し勿体ない。本当に素晴らしい曲なのも確かです。

 そこで、これから全曲聴きたい、という方や、一度聞いたけど分からなかった、という方向けに、こういう前提を頭に入れて、こういう心構えで聴くと、よりこの曲の良さが分かって、楽しめるかも、というポイント、聴くための方法をお伝えしたいと思います。

 と言っても、難しい音楽理論とかは一切なし。演奏を聴くときもそうですが、肩の力を抜いて楽しんでいただければ嬉しいです。後半は、『第九』をより楽しめる、私のお薦め録音名盤5つも、聴く目的別にご紹介します。併せてお楽しみください。

 


『第九』を楽しく聴く5つの方法

 

1.これは実験作だと考える

 
『第九』はベートーヴェン最後の交響曲です。人はどうしても、彼が生涯の全てを結集させた最高傑作と思いたくなります。

 しかし、ベートーヴェン本人はというと、この作品が自分の最後の交響曲になるとは考えていませんでした。次の第十交響曲については、諸説あるものの、少なくとも頭の中に構想があったことは間違いないようです。

 この作品の後、弦楽四重奏曲の傑作(12番~16番)があるくらいで、大作は残していません。しかしそれは、病気による結果としてのこと。本人は次の交響曲だけでなく、オラトリオやオペラの構想まで、意欲的に周囲に語っていました。

 また、シラーの『歓喜の歌』の詞を使うことを長年暖めていたのも、間違いありません。が、同時に、実は、第九交響曲は二つの交響曲をくっつけて出来たものでした。そして、当初は『歓喜の歌』ではなく、別の合唱を考えていました。

 ベートーヴェンには、ピアノソロとピアノ協奏曲と合唱を組み合わせた、『合唱幻想曲』という興味深い作品があります。また、オペラ『フィデリオ』に苦心して序曲を何バージョンも作っていたりします。つまり、彼は器楽と声楽をどのように組み合わせれば効果的なのか、という実験を長年繰り返していたようにも思えます。



 そうした諸々を考えると、この作品は、交響曲を構想していたベートーヴェンが、色々と実験的な試みを入れて膨らませていたところ、偶然、合唱が上手く当て嵌まり、使いたかったシラーの『歓喜の歌』につなげた、と考えるのがいいと思えてくるのです。

 つまり、人類愛を歌い上げるために、自分の集大成として、今までの交響曲にない形式を、最初から構想していたのでは、ありません。かなりいきあたりばったりな、つぎはぎの産物でした。

 これは決してベートーヴェンを貶めるものではありません。失敗を恐れず斬新な音楽を何度も実験的に創る意欲、晩年になっても旺盛な彼のチャレンジ精神が、最高の成果をあげたとみるべきでしょう。

 このことをまず頭に入れておいてほしいと思います。『第九』はあくまで、晩年のベートーヴェンの実験作の一つです。楽聖ベートーヴェンの最後のメッセージだとか気構えないで、楽しむ気持ちを持ってほしいのです。そうすると、最後の合唱だけでなく、曲の所々の仕掛けや美しさを聞く余裕が生まれると思うのです。

ベートーヴェンの肖像
ヨーゼフ・カール=シュティーラー画

 

2.あの歌にあまり期待しない


『第九』を聞いて、初心者が一番期待外れに思うのは、実は最後の『歓喜の歌』ではないでしょうか。

 前情報で、あのメロディのあの合唱が出てくるのは、最後だと知っています。コンサートホールの椅子に座って、長い三つの楽章を我慢して聞く。そしてとうとう最終楽章。あのメロディが来る、と胸が高鳴ります。

 しかし、「あのメロディ」の圧倒的な合唱のパワーで押し切るのは、合唱が入ってきてから、3分過ぎぐらいまで。その後ちょっとした休止を挟みつつ、どんどんメロディを変奏していきます。それは何度も聞けば、見事なものと分かるのですが、ここで、「長い」と思う人は、結構いる気がします。この部分だけで15分近くあるのですから。

 そして最後も、一旦波が引くように弱音になってからの、ちょっと短めの大合唱。そのメロディも、あの印象的なメロディとは違います。初めてコンサートで聴いた人は、拍手をしていても、心のどこかで「なんか違うんだけどなあ」と思っているのではないでしょうか。なんか、つぎはぎで、長くて、盛り上がらない感じだと。



 そう、要するに、全曲聴いたことがない人は、「あの親しみやすいメロディ」のまま、ユニゾンの大音響で興奮させて、クライマックスまでもっていくことを、無意識にイメージしていると思うのです。しかし、ベートーヴェンはそうはしませんでした。

 ちなみに、「あのメロディでクライマックスまで興奮したい」と思っている方は、是非、交響曲第五番『運命』か、第七番の最終楽章を聞くことをお勧めします。ここでは何の休止もなく、分かりやすいメロディで、怒涛のように畳みかけてくる興奮を味わえます。ベートーヴェンは、いくらでもこういった曲を作れました。

 それをしない理由はつまり、先に述べた通り、この作品はあくまで実験作であるということです。そしてもう一つ、彼が晩年様式に入っていったこともあると思っています。

 一般的に、『第九』の後の弦楽四重奏曲から、ベートーヴェンは最後に盛り上がる単純な曲調をやめて、秘教的な謎めいた作風になったと言われます。が、私には、『第九』の休止しつつ、延々と引っ張る感触にも、その片鱗が顕れていると思います。『運命』の単純明快なクライマックスと比べれば明らかでしょう。

 よって、私から言えることは、「あのメロディ」をイメージしすぎて、期待するのをやめよう、ということです。あれはあくまで曲の断片で、しかも一番盛り上がる部分です。実験作なのですから、単純にお祭り騒ぎになる曲ではありません。逆に言うと、「あのメロディ」の抜粋ばかり人口に膾炙しているのは、盛り上がるBGMとして使いやすいだけということです。

 寧ろ、この最終楽章は、様々なメロディが乱れ飛ぶ、斬新な創りのモダンなガラス細工のようなものだということを、頭の片隅に入れておきましょう。そうすると、聴いた後のもやもやを感じずに済むと思います。

グスタフ=クリムト
『ベートーヴェン・フリーズ』


3.歌手もそんなに気にしない



この曲の録音や演奏会で歌手のソリストが出てきます。大物歌手だったりしますが、誰が歌っているかとかは、特に気にしなくてよいと思います。

 何せ70分近い曲で、歌が出るのは、最後の20分弱くらい、しかも、合唱と4人のソリストで分け合っているのですから、一人のソリストの見せ場は3分もありません。

 おまけに、歌手の個性が出るようなパートでもありません。例えばマーラーの『大地の歌』のように、丸々一楽章、憂愁の美を湛えながら歌う必要がある場合は、ソロ歌手を吟味する意味もありますが、そんなことは『第九』には不要です。プロの歌手でこの歌唱パートに問題を抱える人は、まずいないので、実演でも安心して聞いて、拍手喝采をおくるのが良いでしょう。

 

4.第三楽章をじっくり聴く


最終楽章はそんなに盛り上がらない、とすれば、どこを聞けばよいのか。私のお薦めは、第三楽章をしっかり、じっくりと聴く意識を持つことです。

 緩徐楽章と呼ばれる、ゆったりとした旋律のこの楽章には、キャッチーなメロディはありません。ただ、弦楽器と管楽器が絡むようにして連綿と旋律が織り成されて、夢の花園のような光景が広がります。

 モーツァルトの緩徐楽章にも匹敵する美しさ。ただ、モーツァルトなら、手に届かないもの憧れや淋しさといったものを感じさせるところです。そうしたものは薄く、ただ、きらきらとしたまばゆい光だけが通り過ぎていくような、時が止まってしまうような感覚がそこにはあります。

 ベートーヴェンを愛するクラシックファンでも、『第九』に拒否反応を示す人は実は結構いると思っています。しかし、そんなファンでも、この楽章の素晴らしさには皆称賛を惜しまないと思います。

 そして、この楽章をどのように演奏するか、によって、曲全体の印象も変わってくる気がします。緩徐楽章なので、派手な動きはありません。テンポが速めか、遅めか、どこを強調するかによって、曲の色彩が全く変わります。一番美しく、一番個性が出やすい箇所となっているのです。

 この楽章の演奏で厳しいのは、この章を第4楽章の助走・前振りとしてしまうことです。上記のように、単純には盛り上がらない楽章なのですから、前振りで期待を煽りすぎると、反動でずっこけてしまいます。寧ろ、第三楽章までで完結しているくらいの堂々とした演奏が望ましいと言えます。だからこそ、この第三楽章をじっくりと聴いて、その良さを感じるのが、曲を楽しむ一つの方法だと思うのです。



5.「最高」になったのは偶然と知る


このように特徴を見てきましたが、改めて、『第九』は、かなり実験的で、特殊な作品ということを強調したいと思います。では、そんな特殊な作品が、クラシック最高の作品、人類最高の芸術のように言われているのはなぜなのでしょうか。

 それは、結局のところ、ある種の偶然に過ぎないと思っています。まずは、シラーの人類の同胞愛を讃える詩があること、そして、それに付随する、誰でも口ずさめると同時に、盛り上がりやすいキャッチーでシンプルなメロディが部分的にあること。おまけに、合唱という大量の人を動員する形態のため、見た目にもインパクトがあること(いわゆる「千人の第九」のような)。

 こうした要素が、近代の市民社会の発達とともに、自由な市民の友愛の象徴として、『第九』を祭り上げていくことになった、というのは、音楽評論家の岡田暁生氏が著書『西洋音楽史』や、片山杜秀氏との対談『ごまかさないクラシック』で詳細に語っています。

 私も何回かエッセイで、ある芸術が傑作と呼ばれるのは、偶然に過ぎないことを書いてきました。『第九』は間違いなく傑作ですが、ここまで人類の最高芸術であるかのように持ち上げられたのは、本当に稀な事態です。

 それは、おそらく、ベートーヴェンという巨匠の最後の大作であることも大きかったように思えます。巨匠が到達した人類愛という物語が、進歩と成長を求める近代の市民社会に、ぴったりはまった。ある意味、曲の中身ではなく、そうした物語を、人々が欲していたと見るべきでしょう。

そうした前提や歴史を頭に入れつつも、それを一旦横において聴くことで、『第九』のユニークさや、美しさが、色眼鏡なしで感じられるように思えます。コンサートや録音で聞いて、是非自分だけの『第九』の素晴らしさを発見して欲しいと思います。



 では後半は、そんな第九を知るのに、私がお薦めの名録音・名盤をご紹介します。どういう演奏を聞きたいか、で分けてみました。

なお、クラシックの録音とは、同じ指揮者、同じオーケストラでも、何度も録音しているのがざらにあります。レーベル名、録音年、ソリストの名前等で見分けるのがよいかと思います。



目的別名盤5選

 

1.何かスゴいものを聴きたい


ヴィルヘルム=フルトヴェングラー指揮
ベルリンフィルハーモニー管弦楽団 
ブルーノ・キッテル合唱団
ティッタ=ブリーム(ソプラノ)他
(1942年 ターラ)

 とにかく、この曲のおどろおどろしい部分、ぶっとんでしまったようなパワーを味わいたいなら、こちらの録音を。

フルトヴェングラーは、クラシックマニアにとって、踏み絵のようなものです。昔の巨匠のため、とにかく録音は古く、どれも音が悪い。それでいて、濃密なロマンあふれる演奏をするので、神格化するファンと、音質に閉口するファンに分かれます。

彼の『第九』名録音として知られるのは、1951年のEMIから出た、バイロイト祝祭管弦楽団によるライブ録音です。私は昔聴いたことがありましたが、思ったことは、「音質、悪い。。。」でした。あまり相性は良くなく、それからほとんど聞いていなかったです。しかし、音楽之友社1曲1冊シリーズ『交響曲第9番』(相場ひろ著)で紹介されていた、このベルリンフィルとのライブ録音を聞いて、良さに驚きました。

 音質は相変わらずなのですが、曲に漂う緊張感が素晴らしい。特に、第二楽章の剃刀で切るかのような、鮮烈な弦のパワーは良い。第三楽章はとにかく遅いのですが、うねるような力強さとテンションがあり、まったくだれません。

 そして、ある意味驚異的なのは、第四楽章、最後のクライマックス。打楽器が響き過ぎて、とんでもない爆音で他の弦楽器を全部圧倒して、運命の鉄槌のようにがんがんと鳴り響いて終演します。

 フルトヴェングラーは、ナチスドイツのこの時期でもドイツ国内で活動を続けており、戦後その姿勢が問われることもありました。この演奏の強烈な緊張感は、そうした周囲の環境とのフルトヴェングラーの葛藤を表しているかのようです。そうした、曲の内外に漂う鬼気迫る異様なテンションは、伝説の巨匠は、やっぱりすごいんだ、と思わせるインパクトがあります。

 ただ、フルトヴェングラーに関して言うと、仮に彼の録音の音質がもっと良かったら、逆説的ですが、彼のファンは減っていただろうな、とは思います。



2.初めてだけど、「いい演奏」を聴きたい

フェレンツ=フリッチャイ指揮
ベルリンフィルハーモニー管弦楽団
聖へトヴィヒ大聖堂聖歌隊
イルムガルド=ゼーフリート(ソプラノ)他
(1958年 グラモフォン)

 しかし、初めてこの曲を聴く人に、フルトヴェングラーは、お薦めは出来ません。音質悪く、ダイナミックレンジが低いものが多いので、潰れたような音になりがちで、曲そのものの魅力を感じられない場合があります。

 一般的な人は、レコードやCDを何百枚も持っていることはありません。クラシックに限らず、落語でも何でもいいのですが、サブスク等沢山あるものの中から、一番いいのを一つ聞いてみたい、と思うのが、ごく普通の反応。となると、まずは曲の良さが分かりやすく表れており、聴きやすく、同時に、マニアも認めるような上質な演奏であることが望まれます。

 このフリッチャイ盤なら、クラシックマニアの方も、きっと頷いてくれるはず。とにかく、リズムの切れの良さ、ざくざくと進んでいく推進力が素晴らしい。全体的にちょっと早めのテンポで、第三楽章も、快速で、しかもせかせかしておらず、爽やかに聞かせます。第四楽章も全く鮮度の落ちないみずみずしさで進み、フィナーレも素晴らしい幕切れ。「青春の力」といった感じです。

 フリッチャイは白血病で48歳で早世した天才指揮者でした。この盤は、ステレオ初期ですが、録音も素晴らしく、弦が豊かに響いているのも、お薦めできる理由。大手レーベル、グラモフォンの人気盤で、比較的簡単に高音質なCDも手に入れられます。


 

3.音が綺麗な演奏を聴きたい


ヘルベルト・フォン=カラヤン指揮
ベルリンフィルハーモニー管弦楽団
ウィーン楽友協会合唱団
アンナ・トモワ=シントワ(ソプラノ)他
(1977年 グラモフォン)

カラヤンもまた、ある種の踏み絵です。美音にこだわり、クラシックの普及を目指し、いち早くCDや映像メディアを活用し、大量に録音を残して、「帝王」と呼ばれた男。『アダージョ・カラヤン』という、ポピュラーな曲だけ抜粋したアルバムもあり、どうしても、その商業主義的なスタンスに拒否反応を示すクラシックファンも多いです。

 私は、そこまで嫌いではない、というところです。あのつやつや光っている金管やビロードのような弦楽器の厚化粧に閉口する時もありますが、オペラの素晴らしい録音をいくつか聴いたりします。

 カラヤンは気に入った曲は何種類も録音を残していますが、70年代の録音は、どれも録音の質という意味でも良く、鍛え上げられたオーケストラの美音が、重厚感をもって響くのが、聴いていて快感です。

この『第九』では、テンポも快調で、第三楽章を濃厚で艶やかなのに、さらっと聴かせるのは見事。「クラシック音楽におけるよい音」の一つの模範がここにあると思っています。綺麗な音ってどんなの? という興味のある方は、きっと満足できると思います。



4.変わった演奏を聴きたい


 フランス=ブリュッヘン指揮
18世紀オーケストラ
リスボン・グルベキアン財団合唱団
リン=ドーソン(ソプラノ)他
(1993年 フィリップス・デッカ)

ちょっと変わり種をとも思ったのですが、実のところ、第九には、クレンペラーのマーラー第七番や、カラヤンのストラヴィンスキー『春の祭典』に匹敵するような、解釈がおかしいレベルの、ゲテモノ系演奏は、あまりない気がします。

それはこの曲のオーラとかではなく、単に、合唱や歌手もそろえなければいけないため、予算規模が大きくなって、あまり変な作品が生まれにくいのではないかと思います。昨今のクラシックの厳しい録音事情だと尚更。

なので、ここでは古楽演奏の名盤を。ブリュッヘンのこの演奏は、初めて聞く人は、相当驚くはずです。ベートーヴェンが生きた当時の楽器を再現しているため、ピッチが普通の楽器より低い。しかもどこか澄んだ響きなので、全体的にとても軽やかに響くのです。全く汗臭くなく、宮廷で演奏されているような、色鮮やかな音の絵巻物。

この演奏を聴くと、ベートーヴェンがモーツァルトやハイドンの同時代人だということ、バッハやヘンデルのようなバロック音楽と地続きであるというのが、よく分かります。

第四楽章の合唱も、力んだり、咆哮したりすることが全くありません。そのため、所々、聖歌のように、ある種の宗教音楽のように聞こえてくる箇所があります。普通の演奏の感覚に馴れていると戸惑いますが、一度はまると、これだけしか聞けなくなるはず。それくらい美しい、異色の名盤です。



5.じっくり落ち着いた演奏を聴きたい

 

カール=ベーム指揮
ウィーンフィルハーモニー管弦楽団
ウィーン国立歌劇場合唱団
ジェシ―=ノーマン(ソプラノ)他
(1981年 グラモフォン)

 ここまで書いてきたように、私は、第4楽章は無理に盛り上がらなくていい、第3楽章が良い演奏であればいい、というスタンスです。なので、落ち着いた演奏の方をどちらかと言えば好みます。そんな中での一押しは、私が最も好きな指揮者の一人、カール=ベームの演奏です。

巨匠ベームもカラヤンやフルトヴェングラー同様、何種類も演奏を残していますが、この録音は最晩年。80歳を超え、テンポがかなり遅いのですが、これほど、曲の美しさを描けた録音は稀だと思うのです。

特に第三楽章。ゆったりとしたテンポで、時折、本当に時が止まりそうなくらいになります。それが、しみじみとした情緒を醸し出している。思い出の草原の中で、麗らかな陽光に包まれて、寝転がっているような感覚。このままずっと聞いていたい、と思わせる、音楽を聴いていて心から良かった、と思える瞬間が、ここにはあります。

第4楽章になってもテンポが上がったり盛り上がったりしません。ですが、一歩一歩踏みしめるような感触が素晴らしい。ブリュッヘンとは別の意味で、とても落ち着いて聞けます。そう、「歓喜の歌」の派手さで、しばしば忘れがちなのですが、『第九』はベートーヴェンが晩年に差しかかった老境の作品なのです。その人生の全てを回想しているような美しさで、悠然と進むこの演奏もまた、一つの芸術の到達点を表しているように思えます。


今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイでまたお会いしましょう。


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