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【エッセイ#25】無垢な子供の複雑な囁き -小説『夜明け前のセレスティーノ』について


フリージャズのピアニスト、山下洋輔が、「ああいう前衛的な演奏というのは、子供が出鱈目に弾いたのと同じではないか」と言われ、「でも、子供は持続できないんだ」と答えた、といった意味の記事を読んだ記憶があります。
 
これは、全くその通りで、出鱈目に聞こえる音だとしても、それを何十分も弾き続けるのは、相当な労力を伴います。また、やってみると分かるのですが、最初出鱈目に弾くことができても、すぐに、前の出鱈目な感じに戻って、単調になってしまう。出鱈目なまま、「繰り返さずに」持続するというのは、とても難しいのです。
 
これは演奏に限ったことではありません。ピカソの絵画も、時期によっては、子供の落書きのような絵と言われますが、子供が落書きで、あそこまで複雑な絵画を、しかも大量に描けるものではありません。
 
音楽であれ、絵画であれ、前衛的な表現で「子供でもできるように思える、出鱈目な」作品というのは、実際には、子供には決してできない複雑な持続を伴う、技術が必要とされます。彼らがなぜそうするかと言えば、そういう形でしか表現できないものがあるからです。



小説において、前衛小説にも様々な種類があります。その中で、ピカソやフリージャズのような「子供が書いたようで、書けない出鱈目さ」を表現できたのは、キューバの小説家レイナルド=アレナスの、『夜明け前のセレスティーノ』だと思っています。


この小説は、小さな子供の眼から見たキューバの農村の話であり、アレナスの自伝的な小説とも言われますが、ごく普通の自伝を期待すると、その異様な熱気に呆然となります。
 
アチャス(斧という意味)や「死んでた。」が、ひたすら連呼されるページや、何度も繰り返される「終」のページ(終わらない)。突然『使徒行伝』やランボーの引用が挟まるかと思えば、突如戯曲形式になり、ギリシア悲劇のようにコロスや、魔女や妖精が何の説明もなく出てきます。ストーリーはあってないようなもので、ただ、シュールな日記の断片のような、時には抒情的で、時には滑稽な、「ぼく」とその家族の様相が語られていきます。
 
ラテンアメリカ文学のいわゆる「マジック・リアリズム」の範疇に入る作品ですが、例えば、最近文庫化決定で話題のガルシア=マルケスの『百年の孤独』が、堂々たるフレスコ画の大作とすれば、『夜明け前のセレスティーノ』は、コラージュと歪んだ球体を組み合わされた、キュビズムの小さな絵画のような作品です。
 
読みにくいことこの上ないですが、それでも読む者を惹きつける強烈な魅力がページから溢れています(特に井戸の場面はどこか抒情的な情景です)。そして「子供の無垢さ、出鱈目さ」をここまで延々と持続させながら表現できた作品は稀だと思っています。



実際、子供になりきって、子供の世界を描くというのは、難しいものがあります。アゴタ=クリストフの『悪童日記』は、魅力的な作品ではありますが、子供としては、知的すぎる気がします。これはゴールディングの『蠅の王』や、架空の言語を創ったアンソニー=バージェスの『時計仕掛けのオレンジ』も同様です。
 
一部分ですが、単純な言葉の繰り返しと複雑な時制の攪乱によって子供っぽさを表したジェイムズ=ジョイスの『若き芸術家の日記』や、ウィリアム=フォークナーの名作『響きと怒り』もあります。しかし、これらも、作者の知的な言語操作に感嘆するものの、何か、外側から子供らしさを見つめている感触が拭えません。
 
それはつまり、これらの作品には、『夜明け前のセレスティーノ』のような、「持続する出鱈目さ」が足りないからのように思えます。つまり、表面的な言語は混沌としているけれど、ストーリー自体は割合直線的。いってみれば、面白過ぎるのです。


『夜明け前のセレスティーノ』は、そうした古典的な意味での面白さを擾乱しているようなところがあります。そして、その擾乱が技巧の見せびらかしではなく、子供の無垢さと突拍子のなさ、そしてある種の退屈さを表すかのように、ひたすら、手を変え品を変え、一冊の長篇になっているのが素晴らしいのです。



しかし、じゃあ、それが好きか、と言われると、私個人はちょっと答えに窮してしまうのも、事実です。
 
個人的にピカソを称賛しても、彼の絵画の複製を部屋に飾りたいかと聞かれると、首を縦には振れません。また、セシル=テイラーが偉大だと分かりつつ、一度彼のフリージャズを聞けば十分だと思ってしまいます。それらと同様に『夜明け前のセレスティーノ』も、一度読んで素晴らしい気分になるものの、何度も再読するかと言われると、難しい。
 
つまり、「前衛的な出鱈目さ」というのは、その刺激と持続によって、受け取る側もまた、大変な緊張と疲労を強いられるということです。それは常人には決して日常的なものではないと、今の私はどうしても思ってしまいます。
 
逆に言えば、若い人や、まだこうした芸術を知らない人は、一度吸収するのも楽しいのではと思います。そして、色眼鏡で見ずに、「子供に還って」その作品を見てみれば、その華やかで賑やかな感覚の刺激に、必ず得るものがあると思います。

そうした中で、『夜明け前のセレスティーノ』が、極上の作品の一つであることは、私は何の疑いも持っていません。躊躇なくお薦めできる作品です。

アレナスはキューバから亡命した作家です。大航海時代の宣教師の破天荒な冒険を妄想と虚実を混ぜて書いた『めくるめく世界』や、亡命の体験を書いて映画化もされた『夜になる前に』といった興味深い作品もあり、「マジック・リアリズム」の異端を味わうことができるでしょう。


今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイでまたお会いしましょう。


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