【レビュー・批評 #2】映画が実人生を捉える時   ーゴダール『女と男のいる舗道』について

昨年亡くなったジャン・リュック=ゴダールの作品を取り上げたいと思います。彼について書きたいことは沢山あるので、これから何度もエッセイやレビューで言及していくでしょう。彼は多くの作品を撮っていますが、映画史に残る、或いは人にお薦めできる代表作と言えば、何と言っても『勝手にしやがれ』(59)、そして『気狂いピエロ』(67)でしょう。私自身が今まで強く影響を受けたのは、ECMのサウンドトラックを使うようになった90年代以降の作品だったりします。
 
しかし、私が最近偏愛しているのは、『女と男のいる舗道』(62)です。60年代の彼の傑作の中でも比較的地味なこの映画は、作品自体の完成度を考慮すれば、彼の代表作とは言い難いでしょう。しかし実のところ、短編を合わせて70本近い彼の映画の中で、この作品はおそらく唯一と言っていい、珍しい特徴を持っており、その意味で興味深く、注視に値する作品のように思えるのです。

その特徴とは、ゴダールが自分のプライベートな愛について、かなりの部分を曝け出して、それが作品に滲み出ているということです。それは端的に、当時の妻アンナ=カリーナへの眼差しに現れています。
 
少し製作背景について触れておきましょう(以下、紀伊国屋蔵書シリーズ3巻『ヌーヴェルヴァーグ再考』内での細川晋氏のこの作品に関する記述を借用)。60年末に『女は女である』を撮影中、カリーナがゴダールの子を妊娠していることが発覚すると、2人は61年2月に結婚します。しかし、5月にカリーナは流産、その年の秋に自殺を図ります。

そんな状態を抱えたままゴダールは、フランソワ=トリュフォーのアイデアから現代の売春婦を『神の道化師フランチェスコ』(ロベルト=ロッセリーニ)風に断章で語る作品を構想し、62年2月に『女と男のいる舗道』はクランクインします。

カリーナ主演の順撮りで撮影は進められるものの、彼女は前年の流産の悲しみから不安定な状態に陥り、2月末には2度目の自殺未遂を図ります。撮影は中断され、その遅れにより、作品終盤は、別作品の撮影があった名手ラウール=クタールの代わりに、ジャック=リヴェットの『パリはわれらのもの』等で撮影を手掛けたシャルル=ビッチがカメラを回すこととなります。
 
以上、まさしく修羅場そのものの撮影現場だったわけですが、興味深いのは、こうした背景が作品の至る所にこだましており、はっきり見て取れるということです。

まず、物語が進むにつれて虚ろになっていくカリーナの表情は、自殺未遂騒動と切り離すことはできないでしょう。後半、カリーナ演じるヒロインが売春婦になっていく過程での彼女の表情は、アンニュイを通り越して殆ど投げやりとも言える、演技ともつかない空虚なものになっていきます。

売春を重ねる事実に戸惑うでも苦しむでもなく、ただ長々と虚空を見つめる姿は、前年の『女は女である』や、この後の『アルファヴィル』『気狂いピエロ』で、力強くカメラを見返す彼女とは真逆です。そして、無表情とも違う、このような陰鬱かつ解釈の難しい曖昧な表情を見せる人物は、ゴダール作品ではあまり存在しません。
 
そして、映画を構築する際、ゴダールはそんなカリーナに対して、かなり明確に反応しています。

有名な、『裁かるるジャンヌ』(カール・テオ=ドライヤー)のクローズアップと、それを見て涙を流すカリーナのクローズアップの切り返しを、製作背景を頭に入れて「自殺未遂を繰り返す自分の妻の顔と、死刑になることを受け入れていくジャンヌ=ダルクの顔をモンタージュしている」と考えれば、「ヒロインが名画に感動して涙を流す」という従来の解釈とは違った感慨が湧きあがってきます。

おまけに、10章で朗読するポーの『楕円形の肖像』の物語は、至高の芸術作品の完成と引き換えに自分の妻が生を奪われて死ぬ、というあまりにもあからさまな話で、しかもそれを、ゴダール本人が朗読しています。

極めつけは映画のラスト。ご覧になればわかるように、物語上どころか現実のカリーナを殺しかねない、危険極まりない撮影を行っています。つまり、カリーナと死を結びつけ、無意識に、いや殆ど意識的に、カリーナの死を願い誘導しているかのような、危うい手つきが透けて見えているのです。そして、このように、彼の私生活と映画の内容そのものを、メロドラマチックに結びつける解釈を許すのは、やはりゴダール作品では稀なことです。
 
そもそもゴダールは(自作に度々出演するものの)自分自身のプライベートや伝記的事実を作品に取り込まないタイプの映画作家です。盟友のトリュフォーが、自身の少年時代を再構築した『大人は判ってくれない』で長編デビューし、その後殆ど彼の実人生そのままを作品に取り入れた作品を次々と発表していったのと比べると分かりやすいでしょう。

ゴダール映画は、プルーストが批判したサント=ブーヴ風の「作者の伝記的事実から作品を分析する」批評を、予め拒んでいる作品のはずなのです。
 
それには、彼の作品がまずは物語ではなくコンセプトの決定によって構想されるという事実が大きいように思えます。『ゴダール全評論』等に収められている企画書を見てみると、彼は毎回明確に、作品でやりたいこと(物語という意味ではなく)を決めて撮影を行い、編集で再構築しているというのがよく分かります。実はその姿勢は初期から遺作まであまり変わっていません。

その「やりたいこと=コンセプト」は『勝手にしやがれ』ではB級アメリカ犯罪映画だったり、『男性・女性』では若者のドキュメントだったり、『パッション』では名画の再構築だったり、『フォーエヴァー・モーツァルト』では「サラエボ」だったりするわけです。
 
ところが、『女と男のいる舗道』だけは、コンセプトが現実のカリーナの存在に脅かされ、浸食されています。「現代の売春を描くことで資本主義社会の一面を分析する」というコンセプトは、ゴダールが特に関心を持ち、『女と男のいる舗道』だけでなく、『彼女について知っている2,3の事柄』や、後には『勝手に逃げろ/人生』で真正面から取り上げられるものですが、他の作品ではこのような事態は起きていません。

肉感的で逞しく、ふてくされたような表情の『彼女について~』のマリナ=ヴラティ、ゴダールの求める「無表情」を把握して完璧にコントロールする『勝手に逃げろ~』のイザベル=ユペールはそれぞれ魅力的ですが、コンセプトに彩りを加えることがあっても、コンセプトの言説は全く揺らいでいるように見えません。

ところが、『女と男のいる舗道』のカリーナの表情とそれを捉える長回しの映像は、コンセプトに沿った売春に関するナレーションを殆ど裏切って破壊しかねないほど空虚なもので、先に挙げた作品と比べても、明らかに言説と映像が強烈な齟齬をきたしています。
 
ゴダール映画においては常にナレーションと映像は噛み合っていないと思われがちですが、彼の映画は、画面自体は古典的で、あまり強烈なイメージを刻み付けません。ナレーションと音楽の苛烈な断片化が画面を食う勢いで不協和音を奏でるからこそ、生き生きとした作品になっていました。しかし、ここでは現実のカリーナを捉えた画面のイメージの方が、音声を凌駕しています。

そして、ゴダール本人もそのことに気づいているからこそ、『楕円形の肖像』のナレーションを挿入して、売春の実態を描くというコンセプトをずらしていく戦略を考えたはずです(カリーナ演じる物語の主人公ナナが堕ちていく展開に、『楕円形の肖像』で描かれる芸術作品の創作は何も関係ないのですから)。
 
あるいは、ジュークボックスから流れるロックンロール(サンバ?)で踊るカリーナを捉えた、あの素晴らしいシーンでは、凍り付いたようなカリーナの笑顔と痙攣する踊りが、殆ど「死の舞踏」と化しています。そして、そこに挿入される男たちの冷たく突き放したサディスティックな視線。こうした演出は、まさにゴダールが現実のカリーナを持て余しつつ、カメラが捉えている彼女にアンビバレンツな愛憎を込めながら、コンセプトを修正していく中で、肉付けされていったと思えるのです。
 
その他、ブリス=パランが出演して対話する(隠したイヤホンで聞くゴダールの言葉を口にするカリーナとの対話だから、実質ゴダールとパランの対話)シーンも素晴らしい。この日本ではあまり知られていない偉大な哲学者が、自身の思想のエッセンスを短い時間で誠実に伝えており、しかもそれが「言葉と真実と愛の可能性」という、まさに(作品の初期コンセプトではなく)この作品製作の実態、ゴダールが対峙していた現実そのものに関わる言説なのですから、ゴダールがこのシーンを挿入したのも頷けます。

しばしば突拍子もないとされるゴダールの作品展開ですが、しっかり見ると常に論理的に構築されており、この作品でもその知性が全く曇っていなかったことがよく分かります。
 
つまるところ、この作品でのゴダールは、身近な最も愛する人が死ぬかもしれない、そして自分はそれをどうすることできないという現実に対峙しているように見えます。この作品は、理解できない自殺を繰り返す妻への苛立ちと怒り、恐怖、そしてそんな状況でも現実を映画に落とし込もうとするゴダールの強靭な知力と苦心、そして勿論、何とかこちら側に踏みとどまって演技を続けたカリーナのプロ根性といったものが一体になって、ギリギリの綱渡りで成立しているのです。

これに比べれば、製作現場が混沌の極みにあり、物語も混乱しているとされる『ウィークエンド』などは、寧ろ風通しのいい、コンセプトが明瞭な作品でしょう。
 
ゴダールがプライベートを曝け出したという理由ではなく、作家自身が制御できない現実を取り込むことで、作品そのものが複雑かつ多義的な意味と解釈を含んだ曖昧さと豊かさを刻み付けられるものになったという点で、私は『女と男のいる舗道』を偏愛しています。

自分が見たものをそのまま描くことだけが、現実を描くことではありません。自分が普段見知っていたものが違う表情を見せてコントロールできなくなる困難な時こそが、人が痛みをもって現実と向き合う瞬間であり、そんな時にこそ芸術は光り輝く。そうした多くの芸術作品にみられる逆説を、ゴダール作品では例外的に体現しているのが、この作品なのです。

今回はここまで。お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も、読んでくださった皆さんにとって善い一日でありますように。
次回のレビューでまたお会いしましょう。

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