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東京アダージョ・ともだちだから

東京アダージョ・ともだちだから その1
高校の頃、放課後、担任の先生の生物の広い実験室に集まって、よく、みんなで当時のストーンズや、その頃の洋楽の曲を歌っていた。
それは、もう、ずいぶんと昔の話だが・・・
先日まで、それはまったく失念していた事だった。

高校の時、その少し前、自分は、ジャンケンで負けて、バンドのドラムをやっていた、そして、3年になると、いくつかの進学のクラスと就職のクラスに分けられた。
そして、5人いたバンドのメンバーは、自分以外、誰も事実上いないことになってしまった。
そのうちの一人は、中退してプロになり、たまにテレビでも見るようなるのだが・・断言できるのは、そのバンド全体の実力が高い訳では無いのだ。
ただ、自分は、進学クラスではあったが、どうでもよかった。
 好きな仕事をできるような学校へ進学するなら行きたいと感じることあったが、ただ、学校が好きではないし、本当にどうでもよかった訳で、担任の先生の勧めで、その時に、断る理由も見当たらず、、ある組織に高卒で就職することになった。ただ、私には、がんばっても、事務の仕事は、務まらず、1ヶ月もしないで退職したのだが・・・・
気まずく、誤りに担任の先生のところへ行くと「そんなこと、はじめから分かっている、だから、何をやりたいのか、納得して、進学でもしろよ、そうであれば、学問に対する取り組みむや、生きる姿勢が違う筈だ・・」と言われたが、、今さら、もう、いや、ここで、どうでもよいことだ・・

話がそれてしまったが、、
そんな時だった、友達が、何人かで、集まって、当時、FEN(AFN-American Forces Network)で聞こえてくる外国の歌や、当時のグループサウンズ(もう、その時代ではなかったのだが)のそれを楽しく歌おうと言い出した・・・そうだ。
そして、担任の先生は、残り少ない高校生活とばかり、快諾してくれたそうだった。そして、その先生からは、後から、何度も、差し入れさえもあったくらいだ。
ただ、問題は、そのメンバーで、誰もギターが弾けないので、、フラフラしている自分に声がかかり、アコギで演奏をする役回りになった。
初めは、3-4人で、毎日、歌っていたが、だんだんと増えて、20人は超していたのかも知れない・・
その多くが、女の子だった、それは、推薦でもう、進学先が決まったり、そして、就職する子も多くいた。
当時は、まだ、大学進学率も今のように高くはなかったし・・そんな時代だった。

・・・・・

 それから、数十年たった、ある時、卒業名簿にはないはずの自分の住所に1通の手紙が来た。
そこには、訳のわからない、実に長い文章が綴られていた。
最初、それが誰だか、わからなかった。その頃の仕事は、多人数に話すこともある職域だったので、そう、気にもしていなかったのだが。

その手紙には、当初は、音楽家をなさっていると言う、ご主人との生活の部分がつづらていた。
その次は、ご主人のご病気のことが・・
そして、その病状がよく無い方向へ進行していくことが、そこには、どうしたら良いのかという苦しみが、つづられ・・
その次は、ご主人の亡くなったことが・・、ただ、ご主人ではなく、その方とは事実婚だったようだ。
その次には、その方の遺作となる楽曲の演奏会の招待だった。
どうしても、そのライブに行く気にもなれないので、その言い訳を葉書に書いたのだが、、
また、次のライブの招待状が来た、そこには、手ぶらで来れる旨が書いてあった。
そして、どの手紙も、驚異の長さだった。

そのあたりで、気がついた、その女性は、高校の時の一緒に、あのストーンズなんかを歌っていた女子生徒だったのだ。
その後、おそらく、自分と同様に高卒で就職したのだろう、それから、音信不通だった。
当然だろう、一度も話したことも、まして、付き合ってた事もなかった訳だから。

そして、その子の本名は、カタカナ語の名前だった。それは、後から知った。
当時、南米から、日本に親御さんが働きに来ていたのだ、いわゆるハーフである訳だが、母国では、日本人の扱いであり、日本では見るからに外人であった訳だ。それじゃ、居場所がないだろうにと、その毎回の長い文章から感じた・・
ただ、思い出せば、高校の当時は、誰も笑うところを見たことがないと言われていた。そして、失礼だが、少しへんな日本語だった。
あまり友人もいなかった様子だった、そこには、幼い時からラテン語圏だから、言葉の問題もあったのだろう。
今、、思い出したのだが、昼食の時間には、みんなのように、誰かと喋りながら食べるということもなく、一人ポツリと自分の席で、いつも明治のチョコレートをバキッ、バキッと割って、黙って静かに、それだけを食べていた。
その音に後ろを向いて、「なんで、チョコなの」って聞くと、「ダイエット」と一言を、真面目な顔で言うだけだった。
小柄の子なら、まだ、可愛げもあるのだが、どちらかと言うと、比較的に、大柄な方だったと言っても、際立った存在感がある訳でもなかったし、いつも一人でいるのだ。どのグループに入らないと言うわけでもなかったが、、ただ、時間が終わると、一人で、そそくさと退出する。それは、後から聞くと、仕事があったらしい・・手紙の主は、そんな次第だった。

ここまで書いて、ずいぶん昔と思うだろうが、それは、数年前だから、誰でも仕事をしていればスマホを持っている時代だ。
ということは、手書きで文章を書く事が、よほど好きなのだろう。

そして、その長い文面から、その後も、外国籍のために、ずいぶんと苦労されたようだった。
いろいろな職業を転々として、その後、その音楽家の方と暮らしていたようだ。そして、文面からは、生計のために、昼は工場の食堂で働き、夜も化粧を濃くして働く生活だったことも・・
それは、この子の一人の働きで、どうも、生活をしている様子を感じた。

今は、一人暮らしになり、昼間に、よく駅前にあるコスパなマッサージ店で働いているらしい。
自分は、今の家族との生活の、ごく一端を、とても短文で葉書に書いたのに・・
会えないかと連絡があった、cメール(SMS)でだ、自分の携帯番号をどこで知ったのか?
ただ、これもググれば、その当時は出てくるのだったのか?それとも、名簿から、実家の記憶のかなり薄れた、母が教えたか?

毎回の返事をごまかすために、アンドロイドのスマホからだと、cメールはお金かかるよね、iPhoneだと、メッセージってあるんだよ、、などと、ある時、どうでもよいことを書いた。だったら、LINEだろうけれど・・はじめから、あまり意味がない内容なのだった。

そして、自分は、こんな場合、普通は、金銭的なことだろう感じた、それに、ここまでの何年間の手紙の経緯もあるし、貸すにしても、おそらく、そのお金は返ってこないだろうから、今までもこういった事はあったし、1回だけならいいかも知れない・・
1つでは少ないし、5では、こちらも苦しい、3ぐらいがなんとか、できる限界の範囲だったので、そんなことを考えていた・・
これは、万の単位の話だ。

生活が苦しくないだろうかと、それとなく聞いてもみた。
LINEで話すと、、以前は大変だったが、今は金銭的なことでは困ってはいないし、むしろ地道な節約の生活は一人の方が暮らしやすいと言う。
そんな矢先に、
「うちに来ない?」今度は、iPhoneのメッセージで連絡が何度かあった。
「なんで」と聞くと、脊椎の痛みで、ライブに行かない言い訳を書いた、、自分に要因があったのだ・・
「いろいろな話を聞いてくれたので、身体の痛みを少しでも、和らげてあげたいので、何時間でもマッサージするよ、、」
と涙ぐましいことを言うのだ。でも、なんかあれだ・・

(註)ドラマだったら、ここから、始まってもよいのかも知れない、だが、これは、現実だ。

そして、新大久保で会えないか、と言うメッセージが来た。
そこで、マッサージをしてくれると言うのだ。
それで、LINEで話した・・
「ただ、それ、お互い迷惑だしさ、、ホテルって困るんだよね」
「私は全然構わないよ」
「でも、それ、あれだよ」
「私はね、全然、大丈夫だよ、それじゃ、畳みの和室がいいんだよね?」
「いや、それって、ちがくないかぁ・・」
「私はね、それでも、全然いいんだよ」
「なに言ってんだよ、、お前、頭、おかしくないか」
そこまでいうと、急に空白の何秒かの後・・・泣いてるようだ。
「うっ・・・ともだち、だったんだから、だから、、、だから、私は全然大丈夫なんだよ、ともだちだったん、、だし、、すんごく痛いん、じゃん、、だから、私は大丈夫なんだよ」と、何度も、しゃくり上げて、泣きながら言うのだ。
言葉が見つからなくて、とっさに・・
「だよね、あれだよ、あれ、、あ、交通事故って、いやだよね・・」

何なんだろう、この人は、今になってと思う反面・・・・
ただ、今まで、安心できる知人にも出会えなくて、一人で、どんなにか、辛い思いをしてきたのだろう。

その時は、わずかな期間だったが、楽しかったあの都立の高校の時の忘れていた時間を自分は、この時、はじめて思い出した。
その後は、自分と同じ高卒で、社会に出ても、文面からも、国籍の違いもあり、どんなに差別の中で辛い思いの連続だったの事だろう、世の中は、はじめから、公平ではないから仕方ないと言えば、それまでだが・・
後から、よく聞いてみると、その時点での自分の勤め先は、新大久保か、その隣の駅から、しばらく歩く、ところにあった。
だから、新大久保まで来て、自分の仕事が終わるまで、駅前で何時間でも待ってて、くれるという意味もあったと言うのだ。
高校の頃の、あんな自分のことを、覚えていてくれて、、そして、今でも、友達だと思ってくれていたんだと思うと、ありがたい気持ちと、今時、こんな人もいるんだと、心の中に、ポッカリと空間が開いた感じで、少し、しんみりとした。
誰でもそうだが、楽しい思い出は、忘れたくないものだ・・・


(追記)どこかぎこちないし、ほぼ、伏し目がちで、目を合わせないダンスだ・・その年代は、そんな感じなんだろう・・

急に温度差、出てきました、ご自愛くださいませ。


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