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(その1)「イメージと文化」その「物質と記憶」を考える。

1)現在、誰しも、社会生活を行っている者は、スマートフォンと言う「イメージの記録装置」を懐に忍ばせている。
「イメージと文化」にとっては、いわば理想環境だろう。(それは、アラブの春のような事象にも至る-外務省Vol.87 「アラブの春」と中東・北アフリカ情勢)

2)イメージの分類
目から、入る情報は、五感の中でも80%以上と言われる。
そして、そのイメージを鑑みると以下のような分類もできるだろう。
・心的像:心に浮かべる
・知覚像:実際に見る(認知する)
・形象像:形に描く:実際に見て具体的な形となる。
・抽象像:文章化する
・映像:画面と音にする(メカの介入と、メカでの編集、再生のためのメカ・インフラ、また、同時性-Live)

3)その視覚芸術(コンテンツ)を制作する事は、視覚を通過して、相手の心に問いかけることが、1 番のポイントだろう。
人の心に問いかける事は、感性の同一性を得るということで、国境、時間という領域を超える。
そして、それは、今、そこに起きている現実である事象も、人の意識に表象として入るだろう。
また、忘れ去られてしまいそうな小さな表象も、受け取り方によっては、計り知れない程、貴重なモノ(心に残るコンテンツ) になるのだ。

4)時間軸との対峙
繰り返すが、時間軸との対峙を考えてみる。
私時間が、極めて厳しくも、、優しく、そして、充実感あるものでも、、、また、始まろうとした瞬間の終焉でも、、、それぞれの、その時間しか生きることしか、できない。
The identity of the sensibility…
しかし、人のある時点で発信されたセオリーを、共有されることは、感性の同一性を得ることで、忘れ去られてしまいそうな小さな表象も、受け取り方によっては、計り知れない程、感性を揺すぶられるシーンだろう。

5)「絵を描く」ことの意味を考えると、、
「絵を描く」ことはなく、起きている事象や想起させるものを、「絵に描く」「絵にする」、ことはあるだろう、それは、現実の世界での、意味ある部分の模写か、また、自身のコンセプトを表現する手段である。
すでにある絵画(表象)を、模写して、自身のデータベースとして、記憶におさめる、これもあるだろう。

同様な事は、例えば映像にも当てはまる。ブルーノ・シュルツのそれや、クレイ兄弟のそれや・・・
大鰐通り(鳄鱼街)、は、そのような映像なのかも知れないし、アジアの街の同じ立ち位置にいるつもりでも、実は、単なるノイズでしかない、のかもわからない。
そして、自我の中では、そのノイズの重心が常に移行している。

6)ポスト・インターネットにおける、イメージ・オブジェクト(Image object)
Webの日常への浸透は、物質・非物質はシームレス化されて、イメージ・オブジェクトを発生した。
現代のアートに於ける、それは位置付けを持った。 そして、今、ネットとリアルは、意識されることは、希薄になった・・・・

(追記)(その2)「イメージと文化」その「物質と記憶」を考える。
7)アンリ・ベルクソン「物質と記憶」を簡潔に考える。につづく


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