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8月15日:そのイメージと文化の周辺を考える

8月15日、そのイメージと文化の周辺を考える・・・

1945年8月15日は、終戦記念日だ。
まず、誰しもが、戦争をしたい訳がない・・・

戦況悪化の中の特攻手段としてのみに、人間魚雷-回天は製作された。
その人間魚雷-回天は、操縦兵の思想提示手段の自爆テロとは異なる。

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Fig.人間魚雷 回天 記念館前 実物大模型

その時点での状況下で、人間魚雷-回天(かいてん)の操縦兵は、国を、国民を守ることの為に志願した。
当時の教育がそうであったから、という以前に、その意識下で現在の時間軸が存在することを忘れたくはない。
それは、繰り返すが、思想提示手段の自爆テロとは異なるのだ。
とにかく、そういう、あまりに理不尽な戦争という時代があって、今がある。
その経緯と犠牲を忘れてはならないことは確かだろう。
(註)回天の操縦兵他、106名以上の命を費やした事を正当化するものではない事では無いし、米兵の命についても同次元で考えたい。

回天は、戦況が悪化する中、打開策として海軍内で発案され、1944年8月から実戦投入された。
それは、操縦席の人間ごと敵艦に体当たりする魚雷だった。
「天を回(めぐ)らし戦局を逆転させる」、その回天は、九三式魚雷を改造し、全長14.75メートル、直径1メートル、当時の高性能魚雷に操縦席を付けたものだった。それは、自らの特攻(特別攻撃隊)の目的のためだけに設計されている。回天は、一度、攻撃に出たら戻ることは、もう、出来ないのだ。

例えば、航空機のゼロ式戦闘機の特攻機とは、当初からの目的は異なる。
近年、そのゼロ式戦闘機の特攻機は、従来の片道燃料のみではなく、往復燃料を積んでいたと言われる。それは、少年航空兵(徴兵出なく志願を俟って採用)に対するせめて、もしもの場合には帰還も出来ると言う、気持ちだったのかも知れない。

第二次世界大戦終了時の既知の回天基地の場所の地図

Fig.日本の主要な島々にある既知の回天基地の場所。
地図にある、これらの基地は、第二次世界大戦の終わりに連合軍による本土への差し迫った侵略に対抗するために作成されたものだ。米国の公文書のこれからも、8月15日以降も戦火を交える様相が伺える。

それは、3月10日の東京大空襲があっても、勝つはずも無い戦争は続けられ(Concorde fallacy)、この地図には、Ariake bay(有明)がある、そこには、planned coastal bases(計画された沿岸基地)と読み取れる。

その回天については、1945年8月15日の終戦までに訓練を受けた回天搭乗員は1375人に及んだ。そのほとんどが兵学校・機関学校出身の若者、学徒や学生出身の予備学生、20歳に満たない予科練出身者たちだった。年齢も17歳から多くても28歳、大多数は20歳前後の若者であった。
回天による戦没者(日本側)は、搭乗員、整備員他145名、没時の平均年齢は21.1歳である。-以前の周南市ホームページ
近年の産経ニュース(2020.8.11)では、回天の操縦兵106名没、そして、回天作戦全体(回天を搭載した潜水艦の撃沈等)の戦死者1299人没とある。

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*Photo:USS Mississinewa (AO-59): USS(United States Ship)ミシシネワ(AO-59)1944年11月20日、ウリシ島で沈没。- 菊水隊ミッション

その時のUSS Mississinewa (給油艦)では、戦死者63名を出している。
*National Archives.colorのコレクションにある米国海軍の公式写真(cc)

そして、末尾になるが、回天が、1945年7月24日、USS(United States Ship)アンダーヒルの沈没(DE-682)に際して、アンダーヒルの乗船員、約190人のうち122人が攻撃で命を落としている。
米軍の死亡者数もかなり多いのだ。そして、どの方向から、どう考えても、誰しもが、戦争をしたい訳もないのだが・・

(追記)辛い事象だが、生まれる時代や場所は選べない、、残念だ。


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