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【北海道開拓の思い出】#30 兄の結婚

兄が兵隊から帰ってきてお嫁さんが決まり、家でも明るい話が出始めた。何もない時代だけれど、我が家でもできるだけのことをと思ったのだろう。まずお膳を20組とお椀もそろえて注文した。お膳の裏に窪野という名も漆で書いてもらった。結婚式のお料理は今まで飯場のご飯炊きをしていたご夫婦の谷脇さんにお願いすることになった。谷脇さんは若い時は連絡船のコックをやっていたという人で、プロのコックさんだ。私は初めて見る懐石料理のお手伝いをさせてもらった。 もう何日かしたら兄のお嫁さんが我が家に来る

    • 【北海道開拓の思い出】#29 シベリア抑留からの帰還

      親の思いが通じたかどうかわかないが、兄が無事に昭和22年5月20日に帰って来た。 その日は富内の八田の事務所の所長さんから電話があった。4時の列車で窪野幸雄さんが帰ってきた。これから岩美まで行くと暗くなるから、富内に泊って朝帰るようにとすすめたが大丈夫ですと云って帰ってしまったと云うことだった。さあ大変だ、途中までむかえに行かなくては、とにかく、古屋敷の信ちゃんに知らせなければ。 すぐ信ちゃんに知らせたら、一も二もない。晩方なのに俺、迎えに行って来ると走って行ってしまった

      • 【北海道開拓の思い出】#28 木炭生産

        9月に入ったばかりのとき、都田実さんともう一人の方が炭鉱で働いていた朝鮮の方々を佐世保まで送った。中には日本人にいじめられたりして反感を持っている人が多くいたというから、小頭達は隠されたままだった。誰もが我が故郷へ帰るのだから嬉しくて嬉しくてしかたがなかっただろう。都田さん方は何の危害なく無事に佐世保から帰ってきた。 残っている労働者は今までのようにクロムを掘らなくても良くなり、働くのも縮小された。それでも昭和25年頃まではクロムを掘っていた。外国産の安いクロムが輸入されて

        • 【北海道開拓の思い出】#27 朝鮮の親友とのお別れ

          朝鮮の人は丸二年は鉱山にいた。それ以上かもしれない。お正月にはすてきな朝鮮の衣装を着ていて、うらやましかった。耳にはイヤリング、手には3本の指輪をして、私等には見たこともない物で飾っていた。女の人はとにかくおしゃれに手を飾っていた。 妹の恵美ちゃんと仲良しだった植田光ちゃんは恵美ちゃんと同級生でいつも一緒に遊んでいた。お利口な頭の良い子で、お互いの家を行ったり来たりしていた。恵美ちゃんは光ちゃんの家へ泊りに行ったことが何回もあった。光ちゃんのお母さんは日本語は話せなく、おと

        【北海道開拓の思い出】#30 兄の結婚

        • 【北海道開拓の思い出】#29 シベリア抑留からの帰還

        • 【北海道開拓の思い出】#28 木炭生産

        • 【北海道開拓の思い出】#27 朝鮮の親友とのお別れ

          【北海道開拓の思い出】#26 朝鮮の人との話し合い

          終戦になって何日もしないうちに朝鮮の方々と話し合いの日が来た。場所は岩美の独身寮だった。岩美の小頭は朝鮮の方々をいじめていたということで八田の本山から隠された。どこにいるかもわからなかった。話し合いには父がたった一人で行った。父もどんなことになるか分からなかった。殺されてしまうか、半殺しの目か、怪我で終わるか。 我が家族にも話している時間がないと云って父は行ってしまった。母はただ泣いて、私等も姉も父がどんな姿で帰って来るかと案じたが、父は一人で行ってしまった。鉱山で働く人の

          【北海道開拓の思い出】#26 朝鮮の人との話し合い

          【北海道開拓の思い出】#25 戦争が終わった日

          昭和20年8月15日、夏休みですごく暑い日だった。鉱山はお盆もお正月も突貫工事で休んでいる人なんかいなかった。その日もジャガイモをイモ餅にして食べていると、配達さんが戦争が終わったと報告に来た。誰もラジオなんて持っている人はいなかった。すぐに戦争が終わったことが電話でも入った。 アメリカに負けた。 ただそれだけで、どうしたら良いのかもわからなかった。父は100人近い労働者が明日からどうしたら良いかと思ったのだろう。まあ落ち着け、お盆の15日だ。今日終わったといっても、すぐ

          【北海道開拓の思い出】#25 戦争が終わった日

          【北海道開拓の思い出】#24 鉱山の配給生活

          クロム鉱山だったから代用食や米も多少多く配給になった。毎日、必死で食べられるものを作った。我が家も岩美の鉱山の事務所へ引っ越していた。母が物置でひき臼で麦やそばをひいた。「朝もダンゴ、昼もダンゴ、晩もダンゴで日が暮れる」という替え歌が流行っていた。毎日それを食べれる人はうらやましがられた。毎日ほんの少しでも配給の鐘が鳴ったら我先にともらいに行く。家には留守番ではなく、配給をとりに行く人がいなければならなかった。 子供が多い人が明日食べられる物がないと云って、裏庭からそっと来

          【北海道開拓の思い出】#24 鉱山の配給生活

          【北海道開拓の思い出】#23 学徒動員と山の中の生活

          山の中の仕事では大豆ご飯を1週間おかずなしで過ごした。みそ汁とどんぶりに一杯のほとんど大豆のご飯。みそ汁はわかめで、それを1週間食べた。お腹が空いているので、それがまた美味しかった。 1週間お風呂も入らなかったが、そんなものだと思えば平気だった。校長先生がシャツを見てくれと持って来た。びっしりシラミが付いていた。先生だけでなく皆シラミが付いているのだから、何も驚くことがなかった。小さなシラミを爪でつぶして、またそれを着なければならない。シラミの卵がビッシリついていると、すぐ

          【北海道開拓の思い出】#23 学徒動員と山の中の生活

          【北海道開拓の思い出】#22 学徒勤労動員

          昭和20年6月穂別町の生徒が初めて動員された。雪解けを待って6月になった。高等科1年2年の福山の生徒はまだ薄暗いうちに家を出て一週間の出稼ぎに行った。岩美にも同級生が4人居た。 その頃は、何も感じなかったが、熊にでも逢ったら大変だったと思う。学校に着いてから、校長先生と同級生12人と下級生10人で全然行ったこともない岩美よりまだ奥の山の中へ入って行った。行けども行けども着かない。もう何里くらいなのかもわからない山の中へ。ようやくここが今晩から寝る飯場と云われた。山の中に一軒

          【北海道開拓の思い出】#22 学徒勤労動員

          【北海道開拓の思い出】#21 山の中の学徒勤労

          昭和20年、ますます戦争も激しくなってきた。B29が北海道の空にも飛んできて、室蘭など北海道までも被害にあった。福山の山の中でも飛行機の音がしたら草わらの中に逃げた。学校へは当たり前に鍬や鎌を持って行った。生徒は兵隊に行っている方の家族の家へ草取りや畑仕事などをしに行った。毎日毎日、今日はあの家、明日はこの家。 春先はイタヤカエデの樹液、夏はイタドリの葉を取っていた。イタヤの樹液をとるために木に鋸で切り口をつけて、一升瓶を置いた。樹液が出てきたらビンの口に入るようにしておく

          【北海道開拓の思い出】#21 山の中の学徒勤労

          【北海道開拓の思い出】#20 素人相撲

          兄・幸雄は運動神経が抜群だった。戦前は男も女も青年団はそれぞれの部落で運動競技をやった。走る、飛ぶ、投げる、それに相撲。部落で1、2になると穂別連合運動会、そこで勝ったら胆振大会、そこで勝ったら全道大会に行った。兄は短距離は3位、相撲は2位だったと云って喜んで帰ってきた。 その頃は仕事から帰ってくると早速父と兄が裏の畑に作った土俵で相撲をとっていた。兄が全道大会で2位だったというのに、父は今の若いものは弱くなったなと云う。そんなふうに云うのだから父の若い頃はどんなに強かった

          【北海道開拓の思い出】#20 素人相撲

          【北海道開拓の思い出】#19 1か月ぶりの北海道飯

          函館に着いてびっくりしたのは寒さだった。海を一つ越しただけでこんなに寒いと思っていなかった。 鵡川まで来ると、函館の寒さどころでない。父もあまりにも寒かったのだろう。腹が痛いと云って鵡川の病院へ行くのに降りると云う。その時私は何も分からず、もうすぐ富内だものと云って無理に富内まで来てしまった。その晩は富内の八田さんの職員が泊まる合宿に泊まった。 そこの合宿に連絡していたのだろう。片岡さんのおばさんがすぐ七輪に炭を入れて、塩漬けにしたイカを焼いてくださった。一か月ぶりにイカ

          【北海道開拓の思い出】#19 1か月ぶりの北海道飯

          【北海道開拓の思い出】#18 新米でおかゆ

          いよいよ帰る日が近くなり、本家の叔母さんは父に何が食べたいと聞いている。父がおかゆが食べたいと云うと、大きなかまどの大きな鍋に新米でおかゆを作ってくださった。そのおいしかったことといったら。内地では父も小さいころそうして食べたのだろう。新米でおかゆなんて聞いたことがない。父にとっては最高のご馳走だったのだろう。 おばあさんの葬式の時に源二さんが大阪の病院へ勤めていると聞いた。源二さんには葬式が終わってからは会えなかった。ふなちゃんはいろんな衣類を栁行李にいれてくれた。巳之助

          【北海道開拓の思い出】#18 新米でおかゆ

          【北海道開拓の思い出】#17 黒部ダム

          しばらくして黒部ダムを見に行こうということになったが、巳之助叔父さんがとても子供は歩いて行かれないと云う。父は何里あるのかと聞き、そのくらいなら大丈夫だと云って私も連れて行ってもらえる事になった。10月の朝まだ薄暗いうちに巳之助おじさんと父と私と3人で歩いた。途中、何という名の水だ、これは何という冷水だと云ってずいぶん歩いた。そして着いたところが有名な黒部ダムだ。その大きさは書いて説明できるものでない。その時はまだ黒部ダムだった。黒四は終戦後、昭和30年の後だ。 有名な黒部

          【北海道開拓の思い出】#17 黒部ダム

          【北海道開拓の思い出】#16 富山の食生活

          栗拾いに本家のおじさん、子供たちと父と私と7人で行って、一斗くらい拾ってきた。家には囲炉裏もあり、そこでテルちゃんが一生懸命栗をふかしていた。私も初めて見る光景。その栗を食べるのがはやく、たちまち栗の殻の山ができるが、私はなかなか食べれない。そうしたら、こうして食べるんだと云う。あの一斗もある栗をぺろりと食べた。 さつまいもも堀りに行った。さつまいもなんて、どうなっているかも分からなかったが、掘るのではなく茎を引っ張れば大きいのが繋がって出てきた。これも初めてで、たちまち背

          【北海道開拓の思い出】#16 富山の食生活

          【北海道開拓の思い出】#15 内地の家

          学校のグランドの隅にはいちょうの大木があり、毎朝銀杏がびっしり落ちているのに誰も拾いもしなかった。私が拾っていると巳之助叔父さんから花畑の隅のほうへ積んでおくように言われて、それを毎朝バケツで運んでいた。 巳之助叔父さんは学校の前でお店屋さんだったので、いろんなものを貰った。2階に上がると畳の部屋の隅のほうに小さい畳が入っている。その時は何で小さい畳があるのかと思っていたが、叔母さんがお茶を教えていたと後にわかった。叔母さんはいつも品の良い着物を着ていた。内地の家には衝立て

          【北海道開拓の思い出】#15 内地の家