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マルセル・デュシャン 世界の見方を変えた男 2

前回までのお話

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さて1912年、パリで開催された航空ショーの会場に並んだ最新飛行機のプロペラを見て筆を折った25歳のマルセルでしたが、ちょうどそのころアメリカからの来客がデュシャン兄弟の元を訪れます。

彼らは「アメリカ画家・彫刻家協会」を設立したばかりのアメリカの若き芸術家たちで、ヨーロッパの前衛芸術をアメリカで見せるための巨大な国際現代美術展を企画しており、その出展作品の選定のために、イギリス、ドイツ、オランダ、フランスなど、ヨーロッパ各地のギャラリーやアトリエ、プライベートコレクションなどを見て回っていました。

そして彼らは人づてにピュトーグループの噂を聞きつけて、デュシャン兄弟のところまでやってきます。最終的にグループの作家たちの作品をいくつか出展することを決めるのですが、その出展リストの中には、あのパリのアンデパンダン展で仲間の拒否によって、マルセル自ら壁から外して持ち帰ってしまった「階段を降りるヌード No.2」もありました。

さて舞台はアメリカへと移ります。1910年代のヨーロッパはパリを中心として前衛芸術の花盛りでしたが、それに比べてアメリカでは保守的な傾向が主流でした。主にはアメリカの歴史画やロマン主義的な自然や風景などを描いた絵画が好まれており、一般人がいわゆる前衛芸術を目にする機会は一部の例外を除いてほぼなかったと言えます。

そうした中で1913年、アメリカでついにその巨大な国際現代美術展、アーモリーショーが開催されます。ヨーロッパとアメリカの芸術家300人以上が集められ、ニューヨークを皮切りに、ボストン、シカゴへと巡回し、合計で約30万人の来場者を集めました。ヨーロッパとアメリカの芸術家の割合はほぼ半々でしたが、なんといってもこの展覧会の話題の中心はヨーロッパ、とくにパリの前衛芸術運動とそれらの実験的な作品についてでした。展示された作品は印象派から抽象絵画までを含み、それまで自然主義的な写実絵画に慣れ親しんでいたアメリカの人々に大きな衝撃を与え、白熱した議論を巻き起こしました。

それがどれほどの衝撃であったかを示す事件が、二つ目の会場、シカゴで起こります。ニューヨークでの展覧会の話題が沸騰し、その様子が伝えられたシカゴでは、特に美術大学の教授や学生たちを中心として反対運動が起こり「ヨーロッパからの前衛芸術は目に危険である」という理由で、幾人かのヨーロッパの芸術家の等身大人形が作られて、公の場でそれを掲げて火をつけて燃やすという事件まで起こりました。会場には23日間の会期中18万8560人が訪れました。

後にマルセルの親友となるアメリカの写真家マン・レイは語っています。「あのアーモリーショーを見た日から半年もの間、僕は何ひとつできなかった。それだけの時間が必要だったんだ、あれを消化するのには。」

さらに言えば、このアーモリーショーは美術界を震撼させただけにとどまらず、会場を訪れていないアメリカ国民をも巻き込んで、世間で一大論争を巻き起こします。多くのマスコミはこぞってこの展覧会をこき下ろし「半狂乱のフランス人自殺者」たちによる「世界で最も愚かで醜い絵画」などと書き立て、大いに盛り上がりました。

それだけ激しい反応の中でも、特に議論の的となった作品の一つがマルセルの描いたあの「階段を降りるヌード No.2」でした。この絵についての有名な新聞の見出しレビューは「瓦工場の大爆発!」というものでした。ほかにも例えばアーモリーショーを訪れた元アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトは、自宅のバスルームにあるナバホ族の絨毯とマルセルの「階段を降りるヌード」を比較し、最終的に「装飾性、誠実さ、芸術的価値において、絨毯の方がこの絵よりも間違いなく優れている。」と結論付けています。

なにはともあれこのアーモリーショーによって、アメリカでマルセル・デュシャンの名前は一気に広まり、彼は一躍有名人となりました。

階段を降りるヌード No.2



ところで一方、マルセルの描いた絵がアメリカで興奮の渦を巻き起こし、人々の話題をさらっていたころに、マルセル本人はどこでなにをしていたのでしょう。時は1913年、ちょうどそのころ、彼は絵を描くことを辞め、画壇を離れて、人知れずパリの図書館で図書館助手として働き始めていました。

図書館で働きながらマルセルは生活費を稼ぎ、同時にそこで学問と研究を始めます。そのうちのひとつはフランスの数学者アンリ・ポアンカレの理論研究でした。ポアンカレは位相幾何学、トポロジー概念、素粒子研究、理論物理学、天体力学などの幅広い分野で重要な基本原理を確立し、後世へ多大な功績を残した学者です。

ポアンカレは1912年に亡くなっていますが、同時代を生きた天才として、アルバート・アインシュタインとパブロ・ピカソの二人の名前が挙げられます。彼らはポアンカレの理論と呼応するように、空間と時間について思いを巡らせました。そして4次元についての仮説を立て、それらの思考は相対性理論やキュビスムとして結実します。(一方そのころ日本でも夏目漱石がその遺作「明暗」の中の一場面として、主人公がポアンカレの「偶然」という概念について語るシーンが描かれています。)


そしてもう一人、マルセルもまたポアンカレから得た示唆を独自に解釈し、研究と実験を積み重ねていきました。そうした試みのひとつが、1913年の「3つの停止-基準(3 Standard Stoppages)」と言う名の作品です。この作品は、床に敷かれたキャンバスに、1メートルの長さの糸を水平に保持したまま、1メートルの高さから落としたもので、マルセルはこれを3度繰り返し行いました。糸は自然に落下した状態のままニスでキャンバスに固定され、それがラベルとともにガラス板に貼りつけられています。またその偶然できあがった3つの曲線にそって、3つの木製の定規が作られ、木箱に収められます。マルセルはここで、1メートルという単位から偶然で自由な新しいイメージを生み出すことに成功しています。


Marcel Duchamp, 3 Standard Stoppages


この「3つの停止-基準」は「階段を降りるヌード」と違って、多くの人の目にさらされたわけでも、またスキャンダルな反響があったわけでもありません。それはほぼ個人的な実験でした。が、しかしマルセルはいかにこの作品が自分の人生のターニングポイントになったかを後に語っています。この作品は、マルセルが絵画を放棄し、図書館で働きながら、哲学や数学の理論書を読みふける中で、これまでとは異なるまったく新しい作品を生み出すための呼び水となったのです。

そして出来上がった全く新しい作品とは、一切なにも作らないことによって出来上がる作品でした。それは後に「レディメイド(既製品)」と名付けられることになります。

1913年、まず最初にマルセルは自分のアトリエの木の台座の上に自転車の車輪を逆さまに取り付けます。この時点で、これは特に目的のないものでした。マルセルはただなにかを感じ、台座の上に逆さにして取り付けられた自転車の車輪を手で回してみては、その回る車輪を眺めていました。車輪が回るとスポークは見えなくなります。回る速度が落ちるとスポークの直線が再び現れます。それは「単なる楽しみ」でした。まるで暖炉の中で踊る炎を眺めているようなものだった、と彼は語っています。

marcel duchamp bicycle wheel 1913


そして今度は、マルセルはパリ中心部の大型デパートへ行き、ボトルラックを購入します。これは、上を向いたフックのついた鉄製のリングが5つ連なった瓶の物干し台でした。フランスでは、ワインボトルを飲み干すと中身を洗って、このラックに立てかけ乾燥させたのち、ワインショップへ持って行って再びワインを補充してもらいます。当時、多くの家庭で必要不可欠なものとして使用されていた、ごく一般的な道具の一つでした。

Marcel Duchamp Bottle Rack 1914


このボトルラックをマルセルは購入し、アトリエに持ち帰ります。発表もせず、何をどうするわけでもなかったのです。彼はそのボトルラックに対して、確実になにかを感じ、芸術的な行為としてそれを購入し、アトリエに保管しました。実はそのボトルラックはたしかに彼が創り出した全く新しい概念の芸術作品「レディメイド」のはずでしたが、彼はこの時点でまだそのボトルラックに対して、新たな名前と価値を与えたわけではなかったのです。マルセルがこのボトルラックを一つの革命的な作品だと認識し、確信を持ってレディメイドと名付けるにはまだもう少し時間が必要でした。

マルセルがデパートでボトルラックを購入し、アトリエでそれを眺めながら、新たな芸術的ひらめきを前にして思いを巡らしているころ、時は1914年、フランスにも戦争が近づいてきます。兄弟や多くの友人が兵役につく中で、マルセルは心不全の診断によって兵役を免除されました。しかしマルセルにとって、パリはすでに居心地の良い場所ではありません。

前年のアーモリーショーに出品した「階段を降りるヌード」を含むすべての絵が売れ、ちょうどまとまった資金を手にしていたマルセルは、ここで住み慣れたパリを離れ、20世紀の新しい芸術の都ニューヨークへ移住することを決心します。マルセル27歳の冬でした。


ちなみにマルセルがアメリカへ旅立った後、マルセルのアトリエを整理しに来た妹によってボトルラックは捨てられます。


つづく





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