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変わって行った文章表現のいくつかについて


ブログを書き始めてからずいぶん時が経ちました。

あっ、これを伝えたい! いそいそと書くのですが書いたものを見直すとうまく書けてない。

飛んだり跳ねたり、意味が通じない。なんでこんなに長くなっちゃうんだろ?

本音としては、ずっと国語の成績が悪かったので意外感は無いんです。

でも、その国語オンチにさえ起こったことがいくつかありました。


1.やまと言葉を意識しています

わたしは「彼女」とは書かなくなりました。「かのじょ」とひらがなで表現している。

「自分」とは書かず、「じぶん」あるいは「わたし」と書きます。

漢字は左脳を刺激するんですね。

彼は、受け止める暇もなくすぐに分析や評価を始めます。

ところが、”やまと言葉”で目に入って来ると、その柔らかな字体に右脳が「なんじゃいな?」と興味を持つようです。

分析せず、そのままに右脳は抱き抱えます。

生じるこのちょっとした「間」は、あなたとのコミュニケーションではかなり重要かもしれません。


漢語を中心とした「外来語」と、縄文・弥生にまでさかのぼる日本固有の「やまと言葉」の2種類があるわけですが、「やまと言葉」は、おもに話し言葉として今日まで生き延びてきています。

漢語と併記するとわかりやすいと思います。

「ありがとう」と「感謝」。「始める」と「開始」。「楽しい」と「愉快」。「敬う」と「尊敬」。

会話で漢語は避けられます。断定的な硬さがあるとわたしたちは繋がれないからです。

わたしたちのふるさとが「やまと言葉」なんだとしたら、心に訴えたい文章ではふるさとを使うのが人情でしょう。

もしわざわざ漢語を使うというのなら、それは書き手が「今、わたしは思考(論理)を重視しているんだ」とメッセージしたいのです。

でも、論理では他者とは繋がれません。


「やまと言葉」は、後付けで入ってきた漢字から離れて「音」そのものが意味をもつことが多いです。

たとえば、「春」の語源は、芽が「はる(張る)」。

生命力があふれ出す季節を表現しています。

春、春という文を見て、こころははる、はる、はる~♪と無意識に喜ぶでしょう。

わたしは、どうしてもSpring has come.では喜べません。

漢語や英語といった外来語ですと、左脳の解釈を一度通過してしまいます。その分、感性の右脳くんの直接的な喜びは薄れるのだと思います。


推敲のとき、なるべく自分で声を出して読んでみます。

目で追っていた時とちがって、スムーズに発話できないところに口が気が付く。

黙読したとき、たしかに一瞬おやって思ったんですが無かったことにして目はするすると通り過ぎました。

でも、発話すると、かならずそこは口に探知される。かならず。。。とても不思議です。

ひらがな主体の「やまと言葉」で書くと、それはナラティブな日常会話に近いので、「読み手は身近にとらえてくれます」。

漢字ですと、「読者は接近して認識(把握)してくれます」とかいうように硬くなる。

それに、「認識」という漢字は、書き手自身をもなんだか分かったような気にさせます。

でも「わかった」と書くと、じぶんでもほんとに分かったのかなぁとじぶんで書いた文を2度見します。

目で見て、言って聞く。

単純に「文章を書く」と言いますが、じつはじぶんに備わったシステムをわたしたちは総動員させて味わいます。(「読む」では、紙の本を愛でるのですが、さらに触るという触角の参加を促し、匂いまでしています。)


2.もう一度読もうと思う小説には情緒がある

数学者の岡潔は、「大切なのは情緒である」と言いました。

人の中心は情緒だから、それを健全に育てなければ数学もわからないのだと。彼は、「数学の正体は情緒である」とまで言っている。

数学って実に抽象的ですが、それを扱うわたしたち自体が「情緒」で駆動される生き物だからなんです。

もちろん、小説やエッセイや詩も、それを読むのがわたしたち、”にんげんだもの”。

現象世界という地べたに生きるわたしたちと、捕まえることの叶わぬお空の真理との間を、どう繋ぐのかということを岡さんは考えたでしょう。

もし、岡さんのいう通りなら、にんげんの基軸にどんと座ってる”情緒”に対して、ふんいき、むーどなんていう軽い扱いではやばいでしょう。


もちろん、雰囲気ていどじゃ、はっきりしません。

10倍返しだー!というお話や冒険もの、サスペンス、スターウォーズのようなSFの方がすごく面白いです。

でも、また読みたい、また見たいとわたしは思わない。ああ、、面白かったっで終わる。

ブログも、面白い話、珍しい話、ためになる話がたくさんあって、有益ではありますが、またもう一度読みたいとはなりません。

わたしは、じぶんの居場所を作りたくてこのブログを書いていて、あなたの居場所にもなって欲しいなって思ってます。

だから、誰が言ったのか忘れてしまいましたが、「もう一度読もうと思う小説には情緒がある」ということを大切なことだと思って来ました。

それが宗教書、哲学書、科学もの、小説であろうと、何度もなんども読みたくなった本は、わたしのこころに郷愁、情緒を喚起しました。


平易なひらがな主体の文字を使う。。

じつは、強く感情を表現したい性格のわたしにとっては、とても苦しい制約です。

「おどろいた」なんて生易しいのは感情が嫌がるのです。驚愕の、天変地異、人類初・・・とにかく大袈裟なほどに盛りたい。

それにひらがなばかりですと、ぱっとみてもさっと処理できません。ひがしのうまれのわたしはイラっとする。

言い切らない。断定しない。これも辛い。

でも、じぶんの苛立ちなんかより、がぜん「情緒」の方がたいせつでした。

あなたどころか、書いたじぶん自身さえもう一度読みたくなるのですから。(たいはんのじぶんの書いたブログはそうではありませんが)

わたしが関心を寄せる”居場所”ということについて書きたいのなら、わたしは体に近く、懐かしい形式を選ばざるを得ないのです。


わたしはおのれの願望は横に置いて、相手に言わせる、その場の雰囲気に言わせるスタイルへと変わって来ました。

「わたしはこう思う!」という時代は去り、わたしはかのじょや同僚やヨガ友達に言ってもらう。

苦しみ、悲しみ、絶望・・・それは、「会社って酷いっ」という表現よりも何十倍もあなたに入り込む。

他者を表現しているのですが、どうしてもそこに書き手の想いや考えが重なります。

ですから、わたしがせっせと、かのじょやお義母さんのことを書きたがるのは、

書き手を背景に退かせ、かつ、書き手を伝え、また情緒を担保したいという願いから選ばれている構造だと思います。


きっと、「情緒」には、「やまと言葉」とともにわたしたちを突き上げる力が備わっている。

その情緒という基盤に置いて書けるときがわたしにもありますが(いつもではないです)、そんな時、とてもやさしく余韻を残しています。

でも、多くの言葉をわたしが書くときは、たいがい思考が先走ってる。

「あれも言いたい、これも言わなくっちゃ」と騒いでいるのは思考を司る左脳で、文がとっちらかります。くどく冗長です。

思考脳によって”我”が立ちすぎるからです。

余韻が無いどころか、じぶんの考えを押し付けて行く。そうして、あなたとわたしの間の空間が無くなって行く。。

あなたとわたしのために、書く。

だんだんとそれを強く願うようになりました。


P.S.

雑誌『暮しの手帖』は、敗戦まもない1948年、「もう二度と戦争を起こさないために、一人ひとりが暮らしを大切にする世の中にしたい」そんな理念のもとに創刊されたものです。

花森安治さんがてがけた「暮しの手帖」は他に類をみない編集方針でしたが、大成功をおさめました。

でも、誰もまねるものがなかった。広告を載せなかったんですね。彼はコンテンツ自体に掛けた。

その編集者だった花森さんがとなえた実用文10訓はとても参考になると思います。

(1)やさしい言葉で書く。(2)外来語を避ける。(3)目に見えるように表現する。(4)短く書く。(5)余韻を残す。(6)大事なことは繰り返す。(7)頭でなく、心に訴える。(8)説得しようとしない(理詰めで話をすすめない)。(9)自己満足をしない。(10)一人のために書く。

なお、あれこれノウハウを読んでも、それらはわたしの血と肉にはなりませんでした。

わたしが違う次元を望むまで(すこし成熟するまで)、わたしの文体にチェンジは起こらなかった。

では、花森さんのような先人の忠告は無駄なんでしょうか?

いいえ、てのひらに取っておく。そうすると、いつかそれらが再びわたしに話し掛けて来ました。

ああ、、そうだったとようやく「認識」に至りました。既にチェンジは済んでいました。

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