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ブログ文章にある情緒に惹かれます


広大なWebの海だから、そこにポツリ漂うわたしクラゲはときどき途方に暮れてる。

いや、そんなたいした話ではないんですほろほろ。



1.拾う神


ずいぶん前に発信した記事が、ぽちっと押されるということがあります。

なかには、いくつかの記事を何度も読んでくださる方がいらっしゃる。

嬉しい。けれど、こんなんで済みませんって実に思う。

いや、もちろん、渾身の想いでいつも書いているつもり。

だけど、きっと独りよがりで趣味的で、そんなたいした話ではないんですほろほろ・・みたいな気になる。


なぜ、なんだろう?

じぶんでも読み直してみるけど、ううーん・・分からない。

じぶん自身を置いたので、当人にはそれが良いとか悪いという目では見れない。

改めて読むと、恥ずかしさが先立ちじぶんの記事にひたれない。

どうなんだろう?

じぶんだったら、誰かの記事を繰り返し読みたいかなぁ・・

おお、、あるある!あるっ。



2.情緒という


さいきん、煮込んでもらった白菜やニンジンやお芋が美味しい。

白菜って、玉ねぎってこんなに美味しかったんだ!と驚いてる。

肉やてんぷらが好きで、野菜なんかこの世になくても良かったはずなのに。

若い人が好む、インパクトのあるラーメンや焼肉、てんぷらや担々麺はほとんどさいきんは食べない。


で、わたしの書く記事はインパクトが無いです。薄味のどこにでもある野菜で作られてると思う。

わたしが何度も読みたくなる方の記事も、実はインパクトや派手さが無いのです。

もちろん、これから推し、する方は作家ですから美味しいのですが。

若い女性で、ご存じでしょうか、くどうれいんさん。

こんな「日記の本番」を毎月書いてます。(すみません、ご著書はまだ拝読しておりません)

https://nhkbook-hiraku.com/n/n5a355d73bc1d

冷凍していた餅をチンしたらチンしすぎてくらげみたいになりましたという話なんだけど、痺れてしまう。

こちらは、「日記の練習」です。

https://nhkbook-hiraku.com/n/n39a871836047

まあ、一見だらだらと日記が書かれて、日々の繰り返しの中にれいんさんが描かれて行く。

毎月Upされてくるので楽しみにしている。読み返しもしています。

この野菜、うまいなぁ~としみじみ思う。

冷徹な男が何度も野菜スープを食べたがるみたいな、おかしなことになっている。

きっと、どん欲にガツガツお肉食いたい若い男子にはあまり好まれない文かもしれない。


人がもう一度読みたいと思う話には情緒があると言った人がいて、彼女らしさという情緒をわたしは感じます。

情緒ですから、それを好むかどうかは個人差が大きい。

彼女の気負い、苛立ち、喜び、不安・・そういった総体がわたしのそれに近いのでしょう。

「情緒」は、深い趣や懐かしさにしみじみとした感情、時に激しく高ぶる感情の動きといった、繊細多感な心の表現に使われます。

でも、味わいや雰囲気のことなので、いつもわたしはあなたにそれをクリアにお伝えできない。

書き手も、情緒とは読み手のこころに生じるものなので、意図してはなかなか組み込めない。



3.夜明け前の


読んだわたしは、そして忘れて行く。ある時、こころが少し揺れる。

ああ、、またあの芋のにっころがしが、あるいは野菜スープが食べたいって思い出す。

そうすると、れいんさんの文書をまた読んでいる。

いったい、この間に何が起こっているんだろう?


小澤征爾が亡くなり、村上春樹が寄せた文に書かれた「夜明け前の同僚」のような気になるのです。

春樹さんは、静けさの中で原稿をこつこつと書き進めながら、

「今頃は征爾さんももう目覚めて、集中して譜面を読み込んでいるかな」とよく考えたと言うのです。

同僚、仲間、同志というような感覚でしょう。

しかも、孤独にシーンと包まれる夜明け前に。

こころが揺れると、野菜派は仲間の所に戻ろうとするのか。


れいんさんはわたしのことなんて全然知らなくて、こんなこと思ってる読者がいるなんて想像さえしていないでしょう。

そして、村上春樹に比べたら、わたしは誰にも知られない存在です。

でも、春樹さんが静寂の孤独の中でふと思い出す人があるという感覚は分かる。


ああ、、この「夜明け前の」という表現にわたしはうるっとする。

情緒というつかみどころが無いこの不定物は、何が良いのか分からないし、薄味だということぐらいしか言えない。

でも、情緒ある文章というのは、読み手であるわたしの中の、うっすらとした悲しみや喜びを掻き立てて来る。

それは右脳の感性たちが奏でるメロディ。

なので、言葉専門の左脳では何も言えないもの。

その情緒が、仲間の表現を通じてわたしに刻まれているノスタルジーという記憶に触れて行く。

揺れた時わたしは、たとえば、くどうれいんという人を通じてじぶん自身を確認しに行くのです。



4.自由って何だ、野菜スープ論


情報過多です。そして際限も無く情報をこちらも追い求める。

際限が無いというのがまずいのです。欲望には上限が無いのです。

わたしが欲するというよりも、わたしが欲にドライブされて行くのでそこに自由は無い。

インパクトの強いラーメンや焼肉に記憶が占領され、記憶が行動を律するかのようです。

足りない、足りない、もっと食べろ食べろと命令して来る。


一方にミニマリストがいて、彼らは「足りない物」を求めない生です。

「無駄が一切無い」ようにと暮らすので、欲には上限がある。

なぜミニマムかというと、欲を最小にして自発的に感じれる時間を増やしている。

こころに足りない物を足し満たそうとガツガツして来たわたしでした。

けっきょく満たされなかったから、諦め芋の煮っころがしに落ち着いたんだろう。

いや、それだけだろうか?

なぜわたしはインパクトの無い記事を書くんだろう?


わたしは万人向けにスピーチするなんていう芸はないのです。

わたしは、1対1の対話を好む種族なので、どうしてもあなたに話し掛けてしまう。

あなたは今日も元気なんだろうか?

泣いてはいないんだろうか?

あなたも苦しんではいないだろうか?

夕暮れの雨が降り出し街灯が付き始めた街角、鉄橋を列車が通る川原、花が咲いたと喜ぶであろうあなたへ。


後に誰かが読んでくれたり、あるいはまた何度も読んでくれるという行為にわたしはしみじみとする。

こころがじわっとメルトしてゆく。

ああ、あなたはいつも後ほどにやって来る。



P.S.


信頼を積むところを守るのです。そこをわたしはぐっと踏ん張って続けてみる。

きっと同じ種族がいると信じて、あなたに繋がろうとし続ける。

たいはんの記事は、やっぱりほとんどスルーされます。

が、ある日、再読されるというようなことも起こるのです。

そうか、良いと言ってくれる人がやっぱりいたんだと救われる。

わたしはそういう自由を願う人たちの愛で、後ほどに救われている。

ささやか過ぎます?


インパクトの強いラーメンや焼肉は、また食べたいって思わされ、そこへの欲に終わりはありません。

なぜ、ミニマムな薄味がいいのかというと、欲を起こさない分、シンプルに自分が自由に生きれるからです。

自分の好きなこと、選択したことに人生の時間を費やせるとミニマリストは言うのです。

それってしあわせじゃんって。そうだなぁとわたしも思う。

ええ、最近、宗旨替えして野菜信仰と成りました。いや、正直に言うとまだ肉も好きです。

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