書きたいっと、書きたい
”じぶん発信族”の日々。書こうとするときのわたしに強弱がある。
まっ、どうにもならない話なんですとほとほ。
1.そんなのいつ来るかわからない
「書きたいっ」て思って書く時はこころ嬉しい。
書き終わると、ほかほか満ち足りしあわせだ。(ささやか過ぎるか)
でも、「書きたい」がスタートになる時が多く、これが辛い。
わずかに「っ」があるかどうかだけど、エモーションがぜんぜん違う。
「これが書きたい」と思考が言う。
「ああ、よさそうだなっ」とかいう声が答える。(今日の記事はまさに、そう)
スルスルと「書きたい」教に入信している。
そこでは、神は敬われなければならない。
書こう、書くべきだの香りがあるので、半分義務感で書く。
と、楽しくない。いつまでもぜんぜん燃えない。
あれ?素敵なテーマじゃなかったのか?
ぐだぐだと書いては詰まる。いくら直しても直してもだめだ。溜まりゴミ箱行きにする。。
途中で運よく「書きたいっ」に変わり、なんとかUpまで漕ぎつくのもあるにはある。
書いてる”わたし”は、半身をどこかに忘れ頭だけで走っていたのだ。
大雑把にいえば、左脳(言葉や思考)が優位な時は、ぐだぐだといろいろ言っていて、そんなじぶんにうんざりしてとつぜん「書きたいっ」教に宗旨替えする時だ。
右脳(全体、感性)がなぜか目覚め、飛躍が起こる。
胸が、ああ、、書きたい!っていう想いに溢れ、右脳(全体、感性)がぐんぐん元気になるという感じ。
でも、左脳は未だ支配権を握っている。
なのでスラスラとはいかないけれど、ぎっこんばったんしながら大幅に書き直す。
だんだんと、ワクワク感や読むであろうあなたの顔が見えて来る。
ああ、、わたしはこの世界の誰かに触れようとしているその感覚が嬉しい。
書き終わると、オシッコの残余感みたいなのは少しも無いっ。
笑顔の青年と成るっ。
わたしは若返ったのだ。
まっ、最初から「書きたいっ」が来るまで待てばいいのだけど、そんなのいつ来るかわからない。
大胆にいえば、右脳(全体性、感性)は言葉を持たない。だから、声高な左脳に遠慮してふだんは目立たない。
でも、理屈ばかりの左脳夫にがまんならなくなって、ついに右脳女子はぐぐぐーって立ち上がる。
蜂起だ!、ジャンヌダルクだ!
でも、意志でこの蜂起は起こせない。
3回に2回は「書かねば」で、1回が「書きたいっ」のペースです。
もうほんとに「書かねば」の日が辛い。
どんどんじぶんが無価値になって行く。
こんなの書いても無駄だ、誰も読まないという声が満ちる。。
2.テーマもネタも山ほど、あるけど
よくネタが枯れたという話を見ます。
わたしは、エモーションの強弱には悩むけどネタには困らない。
わたしは、有益な情報、参考となる情報を発信したいなんて思ってない。
たぶん、もっとも大切なことはあなたと情緒を取り交わすことだと思っている。
そこはかとない、うるっとする瞬間があればいいと思ってる。
形式的には、じぶんの経験や考えを出そうとはするけれど、
でも、わたしはこんな経験した!、わたしはこんなに深く考えれる!という訴えシーズンをほとんど終了している。
なんとも言えない「じわっ」が出ればいい。
なので、日々の何でも無いことでも、何でもあることでもいいので、ネタには困りません。
もちろん、ネタが思いつかない時もあるし、そもそも「書きたい」で書いた記事はよくふん詰まる。
とにかく書けない時は他者の文章をうんと読んでねとアドバイスした方がいて、わたしも最近はよく他者の文章を読みます。
で、他者の記事をいくつか読んでいるうちに、わたしの胸に書きたいなというテーマが上がって来る。
ああ、これだっとモリモリ上がって来た子を手で捕まえる。
その子の顔を手繰り寄せその子と目と目が合う。
書こうか?うん、書こうよ!みたいな。
その想いが強い時は、たいへん助かります。
夕日が照らし、部屋の隅に埃が溜まってる。その様を、最近の公私の辛さと重ねてもいい。
夏の日の暑い校庭の木々に風と光がヒラリ当たってたことを忘れていた。
これから先もあるということに気づいたと書いてもいい。
書くわたしに、想いがあれば、森羅万象なんでもいいと思ってる。
あっ、いけない!
なんだかんだと、左脳が支配して来てしまった。とほとほ。
P.S.
なぜ、今日の記事をゴミ箱行きにしなかったんだろう。
普段ならUpしないと思う。じぶんでもよく分かりません。
日々にもんもんしているじぶんの姿も、それはそれで良いのかな。もんもん。
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