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わたしたちのセイなる話 第一夜

昨今の社会ムーブメントの影響から、私たちを取り巻く"性"にまつわる環境は変わりつつある今日この頃。

1つ1つの事象やニュースを取り上げたらキリがないくらいなんだけど、大きく言うとセクシャルマイノリティの概念や女性のエンパワメントについて考えることから始まったのかなぁ。

そんな今回は、"わたし自身の性"について考えてみようと思う。「性はグラデーション」とはいうけれど、一体わたしは何色で、誰が好きで、自分とはちがう色な人に対してどうありたいんだろう。

もっともっとみんなが生きやすい世の中を目指して、まず私たち、改めて考えてみるの。お手柔らかにね

さあ
ミュージック、スターティン🍎


文:森下栞

私の性自認は、女性で、
生まれながらの身体的特徴も女性です。
初めて好きになった人は嵐の松潤でした。
今も今までも恋愛では男性を好きになってきました。

とは言いつつ、ザ・女の子!みたいな感じでもないんですけどね。

時たま、
「栞って男っぽい性格だよね」と言われたり
女の子より男の子と遊ぶほうが多いことに不安になることがあります。

そんな風に言われることをあんまり気にしてはいないけど、改めて他人に指摘されると自分の性や性格がよく分からなくなったりもします。

遡れば保育園に通っていた時は男の子に混じって鬼ごっこやコマ回し(時代を感じる)に夢中になり、

セーラームーンやぴちぴちピッチには目もくれず、仮面ライダーとタイムレンジャーのジャージと靴で庭を走り回っていました。

空手を習うのは男の子ばかりという考えもおかしな話だとは思いますが、
空手を習っていたことを話せば驚かれることはしばしばです。

何に関しても「かっこいい」ものに魅力を感じていました。

父親と母親に育てられたわけですが、
私は母よりも父の影響を大いに受けたんだなと思っています。
それが別に嫌なことではなくむしろ楽しかったという思い出が強いので、
過去の私を今の私は肯定することができています。

そんな幼少期を過ごしはしたものの、
自分の性はなんなのか、自分は何者なのかと考えたことは一度もなかったように思います。
小学生になって周りの女の子と同様に恋愛ドラマに出てる俳優さんにドキドキして、
思春期になれば同じクラスの男子を好きになったりもしました。

恋愛対象はいつも男の人でした。
だからか自然と私は男性が恋愛対象の女性なんだと自認しています。

まず、女性とか男性とかいう言葉も概念も
人間のどんなところを見て決めているのかもはや分かりませんが。

新が性はグラデーションという言葉を使ったように
男、女みたいな言葉によって固定された生き方はなくて、恋愛はもちろん趣味や仕事でも周りと違うどっちつかずな感じでいいと思って生きています。

楽しくて幸せならそれで。
酒も飲むしタバコも吸う、好きなものを着る。
やりたいように本能のままが私なのです。

幼少期の私を否定する大人が周りにいなかったことは、当たり前のことなのだろうけどありがたかったです。

私の成長記録と性に対する分析は以上です。

世の中はどんどん変わっていってるとみんな口々に言うけれど、
私自身も本当にその通りだと思うけれど、
本当にそれは私の周りだけのことではないんだろうか?
と時々不安になるのです。

その不安は社会人になってより感じるようになったし、接する世界が広がった分、
私の当たり前が他の人にとっては当たり前じゃないことに絶望する機会が増えました。

簡単に言えば、世の中はまだまだ偏見で溢れていてそれに溺れるように無意識に従ってしまう人もいる。
ということです。
「これって当たり前のことなの?」と敏感に考えられる人はそこまで多くはないと感じてしまいます。
ジェンダーなんて単語を知らない人も沢山います。

世の中もっと良くしよう!なんて簡単には言えますが、本当に変えることって個人個人の想いだけでは難しい。

だから、たとえ自分の身近な事象じゃなくても、想像力を働かせたり考えることってやっぱりやめてはいけないことだと思っているし、私に関して言えばやめられなくなっているとも言えます。

ここからは、自分自身ではなく、他者に関して書きます。
私は、これまで身近な友達や家族からカミングアウトをされた経験はありませんし、今身近にLGBTの人はいないと認識しています。

なので、このテーマを考えるときはすべて例えばの想像の中での言葉になってしまいますが、その例えばの状況になった時のことを考えてみます。

例えば私が身近な誰か、友達や家族(私には弟が2人います)、会社の人からカミングアウトをされた時、

おそらく今の私はそれがその人のあるがままなのだと受け入れて、
カミングアウトしてくれたことに対して嬉しさも感じるかもしれません。
カミングアウトって人によっては勇気が必要なことだろうし、話す相手を選ぶようなものでもあると思うから。

極論ですが、私にとって大事な人であればあるほど、相手が健康で生きててくれさえすれば良いと感じてしまいます。
カミングアウトの事実を忘れるわけではないけど、相手を見る目がものすごく変わったりなんてこともないと思います。

私が好きなものにとことん夢中になったり、大事な人を全力で愛するように、
自分以外の人にもそうであってほしいと思うと思うのです。
自由に生きてなにが悪いんじゃいっ!
ですほんと。

もちろん、私は当事者でないので社会に対する感じ方も同じではないし偉そうなことは全く言えません。
でもいつも通りか、それ以上にもっと考えて想像して自分を受け入れることと同じように他者を受け入れることができればいいなと改めて思いました。


文:松原一樹

今回は”性”について考えてみます。
まずは私自身の性ですが、身体的な性は男性です。心の性も男でしょう。今お付き合いしている方が女性ということと、
私自身が男性だと思っているだけですし、おそらく誰かに「心は女性だよね?」と言われても「男性です。」って返すと考えたからです。

次は他人の性に関してですが、これは私は自由だと考えています。
例えば、もし身近な人が性的マイノリティだとカミングアウトしたら、男性が私に言い寄ってきたりしたら。とか
結論、私は何も変えないと思います。今まで通りに過ごすと思います。

理由は…あくまでここから一個人としての考えですが、好きな人が異性か同性かということは大事なことなのかなと考えているからです。
私にとって好きになる人っていうのは"大切にしたい人"っていう認識がとても強いです。
だから、別に誰を好きになっても、私のことを同性が好きになることだって、可能性はゼロではないと感じています。
もしカミングアウトされたとしても、それだけで判断せず、しっかり面と向かって話をすることが大切なのではないでしょうか。

結果、好きという感情の根底には大切にしたいという思いがあって、それがたとえ同性であろうと異性であろうと、ましてや人間以外であっても
それにに対して自分の価値観を押し付けたりする権利は誰にもなく、十人十色で、みんな違ってみんないい事だと思ってます。

以上です。


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