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別れはいつだって悲しいけど、一度まっしろになってそこから何を描いてもいいんだと思うと、ワクワクしてしまうのはいけないこと?

心の底から自分の性質に絶望するんだけど、予定調和になってしまったら、誰かに自分のこの先のことをある程度限定されそうになったら、とたんにつまらなくなって、ワクワクできなくなって、大事だとしても特別視できなくなって、「もうなにか違うもの見させて、自由にさせて!」と思っちゃうんだと思う。

静かな場所で、ひとりきり落ち着いてすごせる場所で、刹那的でもなく投げやりでもなく、きちんと生活するのが好きだ。自分の家、部屋という、一分のフラストレーションもなく安らげる王国を、よりよいものにするために余念はない。音楽、緑、風通し、光、開放感、機能性。今も、引っ越して約1か月のアパートで、それをコツコツ作り上げている最中だけど、以前住んでいたワンルームと違って、たくさんの窓、3方位のベランダ、そして沖縄の気候にマッチした植物たちがすくすく育ってくれているおかげで、すでにかなりいい状態だ。2LDKだし。

だから、自分のことをかなり安定志向だとも思う。大手企業の会社員になり、充実した福利厚生やボーナスを当てにしている。ボーナスはほぼ全額貯金に回す。ある程度慎重で、心配性で、いろいろと備える性格だ。

にもかかわらず、長いことひとところには落ち着けない。短い人生、できるだけいろんなもの見ないと損だ、と思っているふしもある。ある意味ドケチ根性なのかも。命に、時間に限りがあるのなら、なるべく密度の濃いものにしたい。まるで余命宣告を受けているかのように、「こうしちゃいられない」と常に思う。「もっと先の進まなきゃ」と。停滞は、ただの停止ではなく後退だと思う。まわりは、世界は進んでいるから。

だから私は「結婚して落ち着きたい」という考えが分からないし、一度もそういう気持ちになったことがない。もしあるとしたら、それはその時のパートナーを逃がしたくないばかりに縛り付けたい、と思ったのだろうと自己分析するし、「結婚したい」と思われることは「契約で縛りたい」と思われていると認識してしまう(やっぱりわたしオカシイ?)(だって子どもがいない場合に、付き合っていることと、婚姻関係になること、現実的に何がちがうの?付き合っている時の信頼関係を信じられないから結婚したいじゃない?と勘ぐる私はやっぱりオカシイの?)

だから私はひとところに落ち着いて一生同じ景色見るのはごめんだし、もし「アイノチカラ」なるものによって数カ月は安定した結婚生活最高!と思えたとしても、すぐに退屈して、窮屈になって、「安定なんかクソくらえ」とか思って飛び出したくなることは目に見えてる。どんなに舞い上がって自分を見失ったとしても、完全には見失いきれなくて、どこかで冷静に「いつか目が覚めてこの決まり切った環境をぶち壊したくなる日が来る」とわかっている。

だから、「一生愛します」なんて誓えないんだよ。一生愛したことないもの。音楽や、食や、衣服の嗜好のように、好きなものは変わるし、同じものにはたいてい飽きるんだよ。

今、ここに居る自分が証明してる。いままで、どれだけ好きだった人でも、いろんな事情で別れてきた。今までの別れは、この人に会うためだったんだと、何回も思い込もうとしてきた。でもいつも違った。他人は自分の思い通りにはならないし、私もあなたの思い通りにはならない。

こどもの養育の責任とか、法律に基づいた契約とか抜きに、ただ人間の感情のみでとらえるなら、「パートナー(恋人)」というものは、そのときの互いのテンションや思考やベクトルがたまたま一致している時に一緒にいるだけで、それは限りなく流動的で、今晩「愛してる」とささやき合ったとしても明日には解消されているかもしれない何の確約もないものだ。必然性がなくなったら、終わる。それでも、刹那(限られた期間)のものであったとしても、関係を築かずにはいられないのが人間なんだと思う。

そして流動する私はまた新しい景色を探し始めている。これまで感じたことのない感情、自己を味わい、今しか思わないかもしれない感情を根拠に、エンジンにして、未知の経験をかき分けかき分け、また違う世界を見に行く。今だけの私が、今欲しいものを見つけ、うまくいけば手に入れる。でもいつか、また別のものが欲しくなる。それをくり返す。ただただ自分に正直に生きるのなら。

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