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「1丁170円で手に入る、はかり知れない幸せ。」節約してても心が豊かになるちょっとした工夫

 退職して年金暮らしになると、日々節約に頭を悩まされる。あまりケチケチしすぎると、みじめな気持ちになり、生活を楽しめなくなってしまう。『ほどよい“居場所”のつくりかた――60歳からの人づきあいの知恵』の著者である菅原圭さんが、フードロスを出さない、メリハリを楽しむ、小さな贅沢をみつけるといった、ちょっとわくわくする豊かな節約術を紹介する。(※写真はイメージです)

■ひとり暮らしでもフードロスを出さない

 定年まで厚生労働省に勤め、各地を回って学校給食や老人施設などの栄養指導をしていたというキャリアウーマンと知り合った。数年前にご主人を亡くされ、お子さんはない。都内の戸建て住宅でひとり暮らし。

「お茶でも飲んでいく?」と声をかけられ、ときどきお宅に立ち寄るのだが、先日はついついおしゃべりに花が咲き、食事時にかかってしまった。すると、「ありあわせだけどお弁当をつくってみたの。食べていって」と声をかけてくださる。せっかくのお誘いなので遠慮なくいただくことにした。

 言葉どおりのありあわせだったようだが、和風の弁当箱にいく品かを詰めあわせ、ご飯には山椒としらす干しが混ぜてある。手早くかんたんなすまし汁もつくってくれ、ちょっとしたミニ懐石をいただいた気分になった。帰りには、これも小さな袋入りのお菓子のおみやげまでくださると、いたれり尽くせりのおもてなしだ。

 私が気にしないようにという気づかいからだろうが、お弁当とおみやげの裏事情を話してくれた。

 ひとりになったら、相当気をつけていても残りものが出てしまい「もったいない」と悩んでいた。ある日、ふと思いつき、食べきれなかった分は小さな容器に入れて冷凍しておく。それが少したまると、手早く解凍。ほかにありあわせを添えてお弁当箱に詰め合わせ、今日のようにちょっと立ち寄った人にふるまったり、二人分つくり、訪問先に持っていき、一緒にランチをしたりしているそうだ。

 野菜の切れはしはヌカ床に入れて漬物にし、これも残さず食べているという。とことんムダを出さない暮らしを、ケチくさくなく実現しているのだ。

 おみやげの中味はいただきもの。高齢でひとり暮らしとあって、お菓子の詰め合わせなどをいただいても、もてあますばかり。そこで、百均できれいな袋とリボンを購入し、お菓子を2、3個入れて、リボンで結んでおく。こうすると気軽にもらってもらえるので、賞味期限が切れてしまうこともなくなったという。

 現在、世界的な問題になっているフードロス(まだ食べられる食品を、賞味期限切れ、食べ残しなどを理由に廃棄してしまうことをいう)。世界では年間約13億トン、全世界の食品の約3分の1が廃棄されているというから仰天する。

 とくに日本は「廃棄大国」といわれ、年間約643万トンの食品が捨てられているというから、もったいないことこのうえない。643万トンの45%が家庭からで、残りは外食などから。外食時の食べ残しは、欧米では当たり前になっている「ドギーバッグ」と呼ぶ持ち帰りの習慣をもっと取り入れればよいのに、と思う。

 禅に「折水(せっすい)」という食事作法がある。食事が終わると椀に湯を注ぎ、タクアンで内側を洗う。洗った湯は二口分ほど残して小さな桶のような器に移し、これを樹木の根本にかけ、次の命を育む糧にするのだ。椀に残した二口分の湯は飲み干す。最後の一滴まであますところなく大切に飲むことで、大自然の生命をいただき、自分も生かされていると感じることを作法の域にまで高めているのだ。

 フードロスの対極にあるこの精神をあらためて思い出そう。

■極端なメリハリも楽しみの一つ

 格差社会と言われるが、年金暮らしはとくに格差が大きい……。基礎年金+厚生年金+企業年金の3階建て年金で悠々自適の老後を送っている人と、年金だけでは足りず、老後も働き続けなければならない人と。その差は絶句するほど大きい。

 私は後者に入るのだが、なぜか、人さまから、「悠々組」と見られることが多い。強いて理由をあげれば、あまり人さまを羨ましがらないところがあるからかもしれない。よくも悪くも、人は人、自分は自分と考えるタチで、人さまの「悠々自適」はそれはそれ。自分は自分で、自分の手の内のものでやっていくことが当たり前だと受け止めて暮らしている。

 さらにいえば、お金の遣い方が大胆だ。かっこよくいえば、メリハリがあるのだ。旅行や観劇、音楽会などには私にしては大金をはたき、いい席で見ることにこだわっている。

 財布の大きさには限界があるし、年をとれば若い頃のように稼げるわけもない。だから当然、他のどこかは引き締めている。この引き締めがときには快感につながることもあるのだから、人生は捨てたものではない。

 先日も、近所のリサイクルショップで旅行用のリュック(なんと登山用品ではよく知られたブランド品)を500円で手に入れた。ちょっと汚れがあるから、という理由のわけあり品。だが、家で軽く洗ったら、きれいにとれた。こんなときは「やったぁ!」とひとりでご満悦になる。

 限られた枠の中でも、こうして目いっぱい楽しんで暮らしていけば、窮乏感には直結しないものだ。

■ささやかな贅沢を見つける

「自分のポケットの小銭は、他人のポケットの大金にまさる」。『ドン・キホーテ』の作者、セルバンテスの言葉だ。この言葉どおり、自分のポケットの小銭でもそれなりに楽しんで暮らす。これが、シニアの贅沢の極意だと、私は考えている。

 先日、ふだんよく歩く路地で、これでもかというように、みごとに枝を広げ、誇らしげに咲いているマーガレットを見つけた。近づいてみると、どうやら根っこは一つ。どこかから飛んできた1粒の種がコンクリートで舗装された道の端にあるわずかな土に舞い降りて、そこで芽を出し、ぐんぐん伸びて大きな株になったものらしい。

 こうした植物の力を間近に見た。それだけで、けっこう明るい力をもらえる。 自宅前の公園はいま一面の緑に覆われ、樹々や葉の茂りから日の光がもれる様子も素晴らしい。その緑の下をそぞろ歩く、それが日課だが、毎朝、ほかには何もいらないといいたくなるほど満たされている。

 年をとった証拠だといわれてしまえばそれまでだが、私が今、いちばん贅沢だと思っている食べ物は、ある豆腐屋が毎日、自店でつくっている豆腐だ。店の前を通りかかっただけで、ちょっと青くさいような大豆特有の香りが漂ってくるくらいで、その味は感動的という表現以外は見つからない。

 こうした豆腐屋はもはや“絶滅危惧種”。私がこの店に行くのも月に2回、電車で10分ほど乗って通っている気功の帰りだけ。立ち寄るのは夕方近い時間だから、「まだ、ありますよ」といってもらえる確率は2分の1くらい。というわけで、運がよくて月に1回出会えるかどうか。それだけに、ここの豆腐を手に入れることができた日は、まさに僥倖(ぎょうこう)。1丁170円で手に入る、はかり知れない幸せだ。

 自分のポケットの小銭をこんな風に大きな価値に変えて生きる。そんな芸当ができるのも、年を重ねたゆえの知恵にほかならない、と勝手に考え、深く満足している。


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