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【新直木賞作家・河﨑秋子さんエッセイ】直木賞をとっても 地球は割れないが

 第170回直木賞を『ともぐい』で受賞した河﨑秋子さんが「一冊の本」24年4月号でご執筆くださった巻頭随筆を転載します。河﨑さんが朝日新聞出版で刊行した『介護者D』は、父親の介護経験を元に書き上げた物語。河﨑さんが専業作家となり、『ともぐい』で直木賞を受賞するまでの不安や苦労、そして受賞時の想いも明かしています。さらに本稿執筆中に、漫画家・鳥山明さんの訃報が……。河﨑さんと『Dr.スランプ』の意外な関係とは?

河﨑秋子『介護者D』(朝日新聞出版)
河﨑秋子『介護者D』(朝日新聞出版)

 誠に遺憾ながら、私の力では地球は割れない。

 その事実に気づいたのは、幼稚園の年長ぐらいの頃だっただろうか。

 物心ついた時に見ていた『Dr.スランプ』のアニメで、紫色のロングヘアーをなびかせ、メガネの奥のつぶらな瞳を輝かせた少女型ロボット・アラレちゃんは、「ほいっ」というごく軽い掛け声と共に鉄拳を地面に叩き込み、ぱかんと地球を割っていた。

 ……そうか、地球って割れるのか。じゃあ自分も、大きくなったら地球が割れるのかもしれない。

 幼い私はそう思った。幼児が世界を認知していく過程で生まれた、ごく罪のない思い込みであった。同時期に私が抱いていた誤解は、『地球に日本という国があってアメリカとかイギリスとか外国に行くには宇宙船に乗って他の惑星に行く』という破天荒な内容だったから、地球が割れると思い込んでも無理はない。大人になった今思い返せばただただ微笑ましいだけの勘違いなのだが、幼児だった頃の私は至って本気だった。

 しかし幼稚園に入り、自分よりもかけっこが速い子、絵が上手な子、悪戯をしてもうまいこと立ち回って先生に怒られない子などを見て、私は早々に自分の限界を知った。

 ……どうやら頑張っても地球は割れないっぽい。

 自然かつ素直な挫折だった。そしてその後、私は成長するに従って数々の挫折に見舞われる。

 小中学生の頃は、自然が多くて景色が綺麗、というシンプルな褒め言葉しか浮かばないような田舎で育ったため、文化施設の少なさにジレンマを覚えた。何せ町の図書館に行くにもその距離十キロ、大きな書店に至っては車で三十分かかる距離である(さすがに「週刊少年ジャンプ」は都会から数日遅れで町の商店に並んではいたけれど)。さらに映画館ともなると、車で二時間かかる釧路にしかない。まだインターネットが存在しなかった当時、最先端の文化をリアルタイムで享受できないという現実が、私はひたすら悲しかった。

 高校は実家を離れて道内の地方都市にある高校に進学した。姉夫婦の家に下宿する生活は気楽で、学校の帰り道に書店があったため、たびたび通っていた。もちろん高校生の乏しい小遣いでは予算に限界があったので、当時単行本版が出たばかりの『ねじまき鳥クロニクル』全三巻の装丁を横目に見て惚れ惚れしながら、安い文庫本を買っていた。そして、レンタルビデオ店の割引券を最大限活用させてもらい、地味かつ味わい深い映画をたくさん見た。未だに「さらば、わが愛/覇王別姫」や「青いパパイヤの香り」のパッケージ写真をサブスクリプションのおすすめ欄で見かけると、帰宅して制服から着替えるのももどかしく、ビデオをデッキに突っ込んだあの頃を思い出す。不自由はあったが、ちょっと幸せを感じられた時代だった。

 卒業後、私は札幌の大学に進学した。一人暮らしとあってフリーダム感がすごい。毎日バイトと授業と友人との遊びに加え、今度はレンタルではなく劇場での映画鑑賞にどっぷり浸った。しかも地方では上映されないミニシアター系映画ばかり観ては、個性的な監督が織りなすひねりのある物語に痺れた。映画の日などの入場料の安い日は時間を調整して二本見た。小説が書きたくて文芸サークルに入り、少し手がけたはいいものの、自分には書けるものが何もないな、と諦めの気持ちで筆をおいた。

 これがちょうど西暦2000年頃だ。当時就職活動をしていた学生のことを今顧みて、「氷河期世代」と、エアポケットにスポッと落ちた不運な若者たちのように呼んで憐れんだりするが、当時はもちろんそんな言葉はなく、私たち学生はひたすら灰色のモヤがかかったような中で資料請求、会社説明会、エントリーシート、面接を繰り返していた。そのどんよりとした翳りには本当にうんざりした。一年後に職にありつけるかどうか、自分が食って行けるかどうかさえ分からないのだ。

 私は窮屈な就職活動に見切りをつけ、自分のやる気の赴くままに行動を起こすことに決めた。興味のあった羊肉の生産を志し、一から牧羊を学ぶためにニュージーランドに飛んだ。英語もちゃんと話せないまま飛び込んだ海外生活は、受け入れてくれた牧場の家族の優しさにひたすら支えられた日々だった。

 帰国し、国内の実習を経て実家でようやく羊飼いとしての活動を開始した。少しずつ取引先も増え、自分の満足いく品質の羊肉を出荷できるようになってきた。家業の酪農の仕事もしなければならないため、肉体的にハードではあるが、だからこそ創造的な活動がしたい。そろそろ小説を書くことも再開しようか、と文学賞に投稿し始めた二十代最後の年、父が脳卒中で倒れた。

 父は一命はとりとめたものの高次脳機能障害と半身麻痺となり、悩む暇もなく在宅介護の日々が始まった。家族を見捨てることなどできるはずもなく、また、動物相手の仕事も待ったなしである。人生で一番ハードな時期だった。

 そして、あまりのハードさに私は開き直った。世の中、ままならないことなどいくらでもある。地球だって割れないのだから、それぐらいは仕方がない。ならば遭遇した困難と自分のド根性、これらの掛け合わせを駆使して行けるとこまで行ってやろうじゃないか。やけっぱちともいえる決意だった。

 腹を括った私は我ながら無茶な日々を過ごすことになった。母と協力して父の介護をし、日夜牛の搾乳と羊の世話をし、睡眠時間を削って小説を書く。嬉しいことに小説は人様の目にとまり、やがて仕事になった。が、依頼が増えれば、それはそれで時間と集中力が必要になる。こうなると小説を諦めるという選択肢はなく、次兄一家のUターンを機に父の介護と牧場の仕事を任せ、羊も全て売却して私は専業作家の道に進んだ。

 もし書けなくなったら。もし食べていけなかったら。状況的には不安ばかりではあったが、小説に身を捧げることで波はあっても後悔はしなかろう。そう心に定めた。どうやったって地球は割れないのだから、これぐらいの頑張りならいくらでも厭わない(なお、父の介護の経験は『介護者D』という小説に活かしたので、あの頃の苦労も少しもとを取れたのではないかと思っている)。

 専業作家になって四年目の今年。ありがたいことに直木賞を受賞する運びとなった。決定した当初は実感が湧かずフワフワしていたが、友人知人、私に根気強く付き合ってくれた各社担当編集者さんの喜びように触れ、ようやく喜びが湧いてきた。私に地球は割れなかったけど、私なりに頑張って、一つ大きな山を越えられた。そして、また新しい山はたくさん聳えているようだ。今、私はとてもワクワクしている。

 本稿を書いている最中に、アラレちゃんの産みの親である鳥山明先生が亡くなった。現実の地球は割れない。でも空想の地球を割ることのできるあの女の子の存在は、世界中でどれだけ多くの子どもたちの素敵な夢を広げてくれたことだろう。心よりお悔やみと感謝を申し上げる。


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