日記127 感覚と感性

 儒烏風亭らでんの切り抜きを見た。芸術的感覚・感性について相談されているものだった。

 こで彼女はそれぞれを、何かを感じた、形容詞を伴うものと、その感じたものを言葉にしたものとして説明している。そして後者、すなわち「感性」を育むには、それを表現するための素材、すなわち言葉を獲得していく必要がある、とした。僕はそれはちがうんじゃないか、と思った。思考や嗜好は言語の縛りを受けるとは言うが、しかし感覚というものは必ずしも心理的なものだけではなく、身体的なものもあるわけで、それは形容詞に限った話ではないだろう。配信中だからそのあたりの言葉選びの綾が出やすいのは確かだが、しかしそれでもあの表現はさすがに範囲が狭すぎる。
 それ以上に、感性を言語で表現されたものという発言には首を傾げざるを得なかった。はたして、感性はそんなにスタティックなものだろうか? そして、こう言ってしまったことで、彼女の言う意味での「感性」には優劣が存在することになる。言葉を獲得して高められるということを前提とすれば、よく表現できた感性、たどたどしく表現された感性との間の優劣は明白である。いずれにせよ感覚、感性ともに言語で表されうるということは変わらない。枕詞に「芸術的」と付きはするが、それはどうでもいいことだろう。
 僕は、そういう表現されることを前提とした説明は間違っていると思う。個人的に言うなれば、感覚はその人(あるいは何がしかの主体)のもつ、何らかのものに接触したときに示す反応や気分、好悪などの感情であり、言葉になるとは限らない。冷たい水を気持ちいいと思ったり、緑色に目を惹かれたり、冗談にムッとしたりするような、周りから受信した物事に対する反応等そのものを感覚と呼ぶのだと僕は思う。そしてその内容は問われない。また、その主体が接する物事には、主体自らのした行動やアウトプットも含まれる。
 一方感性は、そのように受信した物事に対するその人(あるいは主体)固有の反応や感じ方とするのがいちばん妥当じゃないかと思う。「この人はこういう言動にフラストレーションを覚える」「この人はこの色の組合わせがセーターにちょうどいいと考えた」「この人はこの和音を蛇蝎のごとく嫌う」など、「この人」といった誰のものか特定できる情報が必ず伴い、そしてどんな反応を示すかということも同時に示される。それは本人が言葉にすることのできる必要はない。ただ、その反応・・・・と示せれば充分である。
 ここで述べた僕の考えは、おそらく思慮の足りない部分があると思われる。誰か指摘してくれれば嬉しいが、それがなされるほどの数の読者は、おそらくここにはいないだろう。

(2023.2.8)

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