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背に生えた刃 3-1

 駅に着くころ、雪がちらつき始めた。
 道理で底冷えすると思った、とぼんやりしていると、カラフルだが寒そうなミニスカートのユニフォームを着た若い女性に「お願いしまーす」と小さなパッケージを差し出された。女性向けのスキンケア用品の新商品サンプルキットだった。
 今日は負けか、と心の中でつぶやく。
 ごくたまに、男性と間違われてか、それとも男女の判断に迷われてか、女性用のサンプリング商品を自分には渡されない日がある。そんな日は、勝ちだ。
 誰に自慢するでも、報告するでもなく、ひとり密かにガッツポーズをするだけのささやかな勝利だけれど。
 受け取ったサンプルをコートのポケットにしまいながら、惜敗に苦笑していると、改札から彼女が出てきた。十五年来の友人の彼女だ。
 手を振ると、顔いっぱいに笑みを浮かべて駆け寄ってきた。今日はあの日約束した彼女の希望通り、デパ地下で総菜を買って宅飲みする日だ。
「どうしたの、つばさ。男の子みたいな格好して!」
 彼女が目を丸くした。よし、彼女には勝った。

 デパートの総菜コーナーは、自分にとっては未知の世界だった。
 上品な初老の夫婦や、隣の友人に負けないようにとオシャレを重ねた女性のグループたちが、我先にと店員に声をかけている。品名を見ても味の想像がつかず、値段を見ては目が飛び出さんばかりに驚いている自分をよそに、彼女は慣れた様子で総菜コーナーをするすると歩いた。
「うわー、どうしよう。どれにしよう、全部美味しそう」
 色とりどりのサラダや、艶やかな焼き色の肉料理を前にはしゃぐ彼女は、すっかり元通りの元気な彼女だった。改めてそう感じるということは、やはりあのサムギョプサルの夜は、楽しそうに見えてもどこか影を背負っていたのだろう。
「お肉は、どうしようか。あっ、これいいな、ジンジャーソテー。普段から体を冷やさないようにするのが大事なんだって、先生に言われたんだよね。これにしない?」
「先生?」
「産婦人科のね。あれからも、妊活のアドバイスを受けに通ってるんだ。レストランやカフェでお水を飲むときも氷抜きにしてもらったり、出来る限りホットを頼むようにしてるの。腹巻もばっちり!」
 そう言ってお腹を温めるように優しくさすっている。
 その胎内にまだ子供を宿していなくても、我が子のために居心地の良い部屋を準備する彼女は、もう立派な母親のようだ。
 前菜のサラダにメインの肉料理は選び切れず二種類、話題のパティスリーのデザートまで、ふたりで食べきれるのかと心配になる量の食材を両手に抱え、デパートを出る頃には細雪もすっかりやんでいた。幸先の良いスタートだと思った。そのときは。

「うわー。つばさの家、っていう感じ」
 肩から荷物を下ろしながら、リビングテーブルとソファ、テレビしかない部屋を見回して彼女が言った。「さすが、キレイにしてるね」
「これをキレイというのかね」
「これぞミニマリストの部屋っていう感じ。うち、人呼べないもん」
「いや、ミニマリストではないんだよ。目に入るところに細かいものがあるのが苦手なだけ。収納扉だけは開けないでね、散らかってるもの全部しまってあるから」
 家を出る前にキッチンに用意しておいた取り皿やカップをテーブルに運びながら、彼女に忠告した。人前では絶対に、どの収納棚も開かない。普段もそうだ。休日の朝、その日に食べるものや観たいDVD、読みたい本、ソファで寝たいならブランケット、そういった「今日使うもの」をすべて出したら最後、片付けるときまで二度と収納扉は開かない。
「収納棚に全部しまえるスペースがあるだけすごいわ」
「テーブルもしまえるよ」
「嘘でしょ!?」
「夕飯終わったら、ヨガやるときに邪魔だからしまう」
 おおう……と息を吐きながら、彼女がリビングテーブルを撫でた。「じゃあ、買ってきたやつ並べようか。ポタージュ作ってあるけど冷製がいい?温める?」
「温かいのでお願いします!わーっすごい!何このパーティー感、気分上がる!写真撮ろう~!」

 その名前が出たのは、彼女が持参したDVDを観終わったころだった。
 彼女のおすすめだという男性アイドルのコンサートは、飛んだり跳ねたり早着替えしたり、簡単なマジックで消えたり、挙句の果てには爆破したりと、もはやサーカスだった。
 若いアイドルがここまでやるかと口をあんぐりさせて見入っていたが、派手なパフォーマンスをしつつも、煌びやかな衣装を身に纏った彼らは確かに美しく、画面にはカラフルな手製のうちわを振って楽しむ観客たちが実に幸せそうな表情で映し出されていた。
 嫌なことなど何もない、完璧な非日常の世界がそこにあった。
「この子、――ちゃんにすこし似てるね」
 と、DVDパッケージにプリントされたアイドルのひとりを指さして自分が言った。彼女と自分の共通の友人である女性に雰囲気が似ていたのだ。
 すっかり満ち足りた表情でサラダの残りをつついていた彼女は、その名前を聞くや否や、視線をちらりと泳がせた。あれ、と感じたときにはすでに、波が引くように彼女の笑顔が消えていた。自分の記憶では、彼女はその友人とは自分よりもずっと仲が良かったはずだった。

「何かあった?」
「んー……」
 何か言いたそうな、言いにくそうな顔を数度繰り返したのちに、彼女が言った。「つばさ、最近あの子に会った?」
「去年、地元で一回会ったきりかな。そのときもゆっくりは話せなかった、忙しいみたいで」
「そっか……」
 そう言ってまた、言いたそうな顔と言いにくそうな顔を繰り返す。なんとなく自分も、彼女の次の言葉を待って黙っていた。すると、意を決したように彼女が言った。

「言わないでって言われてるから、つばさにしか言わないからね、これ絶対内緒ね」
「何?」
「あの子ね、今、女の子と付き合ってるみたいなの」

 ぎくりとした。

(つづく)

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