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誰だって、私だって、いつでも誰かにとってのマリー・アントワネット

マリー・アントワネットが
「パンがなければ
 ケーキを食べればいいじゃない」
と言った、という話は
 
彼女がいかに世間知らずで
民衆の気持ちがわからない王妃だったかを
強調するような意味で取り上げられるけど
 
そういうことは、実は
日々のやりとりのなかで
いくらでも出会う。
 
遅刻したくないなら
早く起きればいいじゃない
 
痩せたいんだったら
食べるのをガマンすればいいじゃない
 
できないんだったら
練習すればいいじゃない
 
お金を貯めたいなら
使わなければいいじゃない
 
そして、言われた人は
それはそうかもしれないけどさ
でもできないんだよ。と
いたたまれない気持ちになる。
 
だけど、別のシーンではまた
立場が逆になることもある。
 
王妃だと祭り上げられては
見も知らない国に行かされ
あったこともない男と結婚し
国難の責任を突きつけられ
処刑される、という運命をたどる
普通の女の子の気持ちなんて
民衆にはわからなかっただろう。
 
民衆もまた、彼女に
「憎まれるのがイヤなら
 金を使わなければいいじゃない」
と言ったのだ。
 
できるひとにとっては
当たり前にできることだから
なんでできないのか、なんて
わからないのが普通で
 
それがダメだとか、おかしいとか
人の気持ちがわからない、と
批判するのは簡単だけど
 
誰だって、私だって
いつでも誰かにとっての
マリー・アントワネットに
なりうるのだ、ということは
心のどこかにとどめておきたい。
 
そして、どこかで目の前に
マリー・アントワネットが現れたら
 
それがどんなに不可能に思えても
自分の苦しさや大変さにとらわれて
「できるかよ!」と決めつけるでなく
 
「それも、一理あるかも?」と
一度はフラットな目で見てみたい。
 
それが、思わぬ道を見つける目に
なるのかもしれないから。
 
自分の苦しさや大変さにとらわれて
マリー・アントワネットをはじめ
貴族たちを虐殺しないことには
収まらなくなってしまった民衆もまた
 
いつか、誰かにとっての
私なのかもしれないから。

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