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君たちはどう上下左右に動くか

#君たちはどう生きるか を見ましたよ。とても面白かった、なんと真正直な作品だ、と、感涙した。まずはじめに罪悪感についての物語だと感じ、それが映画の中でどのように描写されていたのかを思い出すと、その動きは横移動であった。そして、主人公眞人が翻弄される幻想の世界は上下動が支配していた。過去作に顕著であった奥から手前、手前から奥の動きは控えめであり、劇的を排除した抑制が読み取れる。本稿は「アニメーション内での移動」に焦点を絞った評となる。

『君たちはどう生きるか』評

 これは、罪悪感についてのレイヤーと、継承の拒絶についてのレイヤーが、それぞれ縦と横に移動する場面を通して描かれた、螺旋の映画である。

 螺旋の頂点でその二つは衝突する。


レイヤー 1 罪悪感について(横移動)


 少年の抱えた罪悪感をめぐる、横移動の物語。
 母を亡くし、父に心を開けず、義母との関係をうまく構築できない少年は、自らを石で傷つけて、熱に浮かされ、夢と現実の交差する世界に迷い込む。そこで少年は生と死の流転生成を体験し、幼き母と再会し、義母の本心と自身の本心を確かめて、己の罪(黙秘)と向き合い、現実世界へと帰還する。

レイヤー 2 継承の拒絶について(縦移動)


 飛来した隕石と大叔父の世界をめぐる、下降と上昇の物語。
 狂った大叔父の血を引く少年は、空を飛ぶアオサギに誘われて、婆やと共に下世界へと引き摺り込まれる。海から引き上げられ、空へと上昇するワラワラを見送り、天に炎を撃つ少女と出会い、岩穴を降って胎内巡りをして一度死に、穴の底から這い上がって壁を登り、大叔父の願う継承を拒絶して元の世界へと帰還する。

縦と横


 思い出してほしい。眞人が外界に対してなんらかの企みを抱くか、素直な気持ちを吐露する場面は、平行に物事が移動するように描かれる。特に顕著なのは、村の子供たちと乱闘する場面と、自らを石で殴りつける場面だ。また、弓矢を作り、義母の部屋からタバコを盗み、肥後守を研いでもらう一連の場面。出征する兵隊に礼をする場面など、これらが全て現実の場面である事を強く主張している。

 比べて、幻想の出来事は常に上下動する。灯火管制下の東京で燃え盛る病院に走る主観描写、記憶の中の母は炎と共に上昇する。アオサギは空から舞い降りてまた高台へと飛び去り、義母の放つ鏑矢は天高く飛び、目覚めは深い水の底から、地獄は足元にあり、インコたちは地下深くに巨大な縦杭の街を作り、石の胎内は底深く螺旋に沈み、インコ大王の向かう通路はなぜか塔の上の方にある。違う世界に行くには、上昇下降の負荷がかかるのだ(鳥さえ飛べねば落下する)

*興味深いのは産屋で、ここは入り口からベッドまでが並行に続いており、中で行われる問答も、出来事は異常ながら、まったく普通の正直な会話だ。
 つまり、これは彼ら(眞人と夏子)にとっては、現実の出来事なのである。
(心を開かぬ姉の息子に対して、不安と憎しみを抱えていた夏子は、乱心して「あなたなんて嫌い」と怒鳴り散らす。その本心を受けて、眞人は「夏子かあさん」と呼ぶ。それを聞いて夏子は正気に戻る)
閑話休題

螺旋は頂点で衝突する


 大叔父に会いに行くとき、眞人は石のかけらをポケットに忍ばせる(この動きをわずかに肘だけで見せるのがまた見事である)、この場面も坂道を上昇していく。
 座った大叔父と立った状態で同じ高さになった眞人は、縦に積まれた積み石を目の前に、この物語の縦と横が重なるセリフを大叔父に叩きつける。
「この傷はーー」

 現実世界は、やがて火の海となる夢のない世界だ。夢の世界で上昇下降していれば、己の罪とも向き合う必要はない。かといって、なんの代償もなく夢の世界を壊して良いはずもない。だから、眞人は己のつけた傷を客席に見せつける。
 母を見殺しにした、父に嘘をついた、義母の心を傷つけた、タバコを盗んだ、戦争の道具を見て美しいと言った、父と義母の接吻を盗み聞いた(階段を下降する事ができなかった!)、豊かな家で堆肥を作ることもなく本を読んで生きた、そして自分を傷つけた。

 この現実と幻想の衝突こそが、もっとも大きな映画的クライマックスである。だからこそ、インコ大王はあっという間に発狂して積み木を縦に叩き割り世界を崩壊に導くし、大叔父は何もできないまま横に凪飛ばされる。なにもすることはできない、眞人がこの世界の全てをぶっ壊したからだ。

そして、脱出した眞人のその後をさらっと描いて、映画はすっ、と終わる。なぜなら、夏子には子が生まれ、戦争は終わり、眞人は東京へ戻るからだ。縦に横にと動き回る「物語」は終わった、そして「君たちはどう生きるか」。

私たちの生きている「現代」が始まるのだ。

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