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台所の哺乳瓶

一度失った信用を取り戻すのは容易ではない。

信用を構築するのは大変なことで、しかし、それはほんの些細なことで壊れてしまう。ビジネスの話ではよく聞く話だ。私たちビジネスパーソンは信用に足る人物になるべく、日々精進すべき。商売を始めたての私は張り切っていた。

裏で呼び鈴が鳴っている。陽二が乳を欲しがっているのだ。そろそろ来る頃だ、と私も思っていた。だけど、ちょうどピザの注文が入って、手が離せない。とりあえずこれを仕上げてから、そう思っていると「チリンチリンチリンチリン!」、またけたたましく鈴が鳴る。分かった、分かったからちょっと待って!けどまたオーダーが入ったりで、ようやくバイトの美奈ちゃんに店を任せて裏の居間へ行った私が見たのは、お義母さんが自分の乳をはだけ、抱き上げた陽二に咥えさせようとする懸命な姿だった。

「ちょっと…何してんの…」

陽二は反り返って泣き叫んでいる。

「アカンわー、やっぱ出やんわ」
「出やんわ…って…」

私は急いで自分の乳を放り出して陽二に咥えさせる。こっちはこっちで溜まった乳がほとばしり出てるくらいだ。

「アンタが遅いからやで、ホンマに」

そう言うと、お義母さんは自分の乳をタプタプを持ち上げる。

「ホレ、見て。私のおっぱい。あんたのよりピンクできれいやろ?」

母乳育児中の乳と言うのは、お世辞にもセクシーとは言えない。乳は石のように固く張ってくるし、乳首も褐色の粘土のような色になる。その私に向かって自分の乳を見せて自慢する。そんなお義母さんと、私は暮らしていた。ついでに言うと、そんなお義母さんと、お義母さんの彼氏と、私と、息子の陽二。

もともと営んでいた文具店を閉業し、そこで私が飲食店を始めた。同時に妊娠も発覚したことから、そのままの流れで店の裏にあるお義母さんとお義母さんの彼氏の住む家で私も同居を始めた。なにしろ、仕事を続けるには息子の陽二を見てくれる人が必要だった。店は夜遅くまでやっていたし、夫は別の場所で別の仕事をしていたので、同居以外に選択肢はなく、もう本当に自然と同居になった。

夫を育てた人だから、きっとうまくやっていける。これは、同居におけるトラップのひとつだ。好きになって一緒になった、その人を育てた人だからイコール、である。夫とイコール。だから夫が好きな私はお義母さんのことも好きになるはずだし、夫が私を好きならば、お義母さんも私を好きになるはず、という理論。実際は違う。イコールなはずがない。冷静に考えれば、夫とお義母さんは別人だ。そんなことを言えば、夫を育てたお義母さんの彼氏のことを、私も好きならなくちゃいけない。

「アンタ、店が忙しいのはいいけど、洗濯くらいキチンとしいや」
「別に、ちゃんとしてるよ」
「何言うてんの、溜め込んでるやん。今日も私がしといたげたんやで」

そもそも、お義母さんの「溜め込んでる」と私の「溜め込んでる」は基準が違う。掃除もだ。お義母さんの沸点のほうが低い。私にとってはまだ大丈夫、という時点は、お義母さんにとって「溜め込んでいる」「汚れている」になる。だからいつも先にお義母さんが勝手に洗濯をしたり、掃除をしたり。で、

「私がしておいてあげた」

と、言われる。こっちにしてみたら「まだまだ許容範囲内なのに、勝手に恩を着せられる」という状態だ。いい加減にして欲しい。だけど、相手には伝わらない。私も負けないように気をつけてみて、早めの洗濯、掃除を心がけたこともあるけど、それでも、やっぱり向こうのほうがちょっと早い。もしかすると、私の様子を見て向こうも早め早めにしてくるのかも、というくらいだ。だからもう諦めた。

「それにしても、アンタの乳は出がええな」

お義母さんは肌着に腕を通し、その上からブラジャーを付けた。ブラジャーというのは、直接肌の上に付けるものと思っていだけど、お義母さんは下着の上にブラを付けた。そしてブラにタプタプと乳を仕舞った。

「やけど、絞った乳はあんまり飲まんから困るわ」

日中、買い出しに行っている間など、私がいない時用に、あらかじめ牛のように搾乳をして母乳を冷凍する。ミルクでもいいのだけど、乳の出がいいのと、やっぱり母乳のほうが栄養がいいということで、専用のビニールパックに冷凍していた。乳を欲しがった時、それを解凍して、人肌に温めて飲ませるのだ。とは言え、赤ん坊はきまぐれで、ちょっと飲んでもう飲まない、ということも多い。冷凍とは言え、あまり日が経ってもよくないので、絞っては冷凍し、温めては与え、残ると捨てていた。

乳は「ちち」と言うだけあって、その内容は血と同じようなものだ。母親の体液であり、それが乳腺を通るから白い色になるだけであって、もし母親が酒を飲めば、血中にアルコールが入るのと同じで、母乳にもアルコールが混じる。不思議なもので、乳さえ飲んでいればとりあえず子は育つ。子は母乳という親の体液から様々な免疫を受け取るらしい。無精者の私は、ミルクを作るのが面倒、母乳で済むなら、そのほうがいい、栄養があるなら、なおいいじゃないか。と思っていた。

だけど、その乳を台所の流しに捨てる時は、少し心が痛んだ。自分の一部が無駄になってしまった、そんな感じだった。一度、自分の乳がどんな味なのか、飲んでみたことがあったけど、とても牛乳というものではなく、もちろん、人の乳だから「人乳」なんだけど。見た目は牛の乳よりもずっと色が薄いし、味も全然薄い。とにかく、薄い。色んな味を知ってしまった大人には繊細すぎる味なのだろうか。赤ん坊は喜んで飲むのに、ちっともおいしいと思わない。むしろ不味い。それに、なんかちょっと生臭い感じもある。そりゃそうだよ。だって血なんだもの。

その日、またお義母さんに洗濯物を先に越され、ああ、また私がしてあげたと、文句のような自慢をされるわ。と、憂鬱になっていた。買い出しに行って戻ると、お義母さんが陽二に私の母乳を解凍してあげているところだった。

「あれ、よかった。ちょうどママが帰ってきたから、ママにもらいな」

やはり、解凍したものは飲みが悪いようだ。陽二もむずがっていた。私はそのまま乳を与え、お義母さんは飲み残しの哺乳瓶を持っていった。あの乳も無駄になってしまった。まあ、しょうがない。

たらふく乳を飲んだ陽二はすっかり満足し、機嫌がよくなった。乳を与えた私は、今度は自分の喉が乾いたので、台所へ行った。お義母さんが、台所で何かしているのが見える。見ると、その手にはさっきの哺乳瓶が握られていた。

「え!」

私は思わず声をあげた。

「飲んでるん?それ、飲んでんの?」
「だって、もったいないやん」

お義母さんは横に置かれた哺乳瓶のゴムの乳首を差して、

「これではうまいこと飲めんからな、外して飲むんよ」

私でも不味いと思う私の乳を、すごく味の薄い私の乳を、夫に、試しに飲んでみるかと言って「そんなの気持ち悪いわ」と言われた私の乳を!私ですら流しに捨てていた私の乳を!この人は風呂上がりに腰に手を当てて牛乳を飲む人のように飲んでいる。

いや、仮に100歩譲って、人の乳は栄養があるからだとしても、それにしても、自分の娘でもないのに、単なる嫁なのに、その嫁の乳とか普通飲めるか!?いいや、飲めない。私だったら絶対に飲めない。いや、私のですら飲めない。でもなに、この人飲んでる。すごい。すごすぎる…。

お義母さんは乳を飲み干し、何食わぬ顔で言った。

「そう言えばアンタ、また洗濯してなかったから、私しといてあげたからな」

人の信用は些細なことで崩れると言う。だけど、反対のことを聞いたことがない。
たった一度の小さな出来事が、その人の信用となり、その後何があっても崩れることがない。ということを。一般的に、嫁の乳を飲む義理のお義母さんなんて、気持ち悪いと思うかも知れない。冷静に考えたら、やっぱりちょっと妙だ。だけど、私は産後でナーバスな時期でもあった。物事の判断基準が普通じゃなかったかも知れない。それで、私の乳を飲んだ人というだけで、もうこの人のこのことだけは何があっても忘れないだろう。そう思った。

5年後、お義母さんが彼氏とやっていた会社は傾き、私と夫はその借金を被る羽目になった。私とお義母さんは何度も大きな喧嘩をし、最終的に絶縁状態になった。店も移転させた。その15年後、彼氏が痴呆になり、お義母さんは骨折で入院した。その頃、お義母さんはもうお義母さんではなくなっていた。私が離婚したからだ。だけど、関係なかった。私は彼氏に食事を運び、お義母さんの病院へ毎日通った。2年後、彼氏が死んで、お義母さんはひとりになった。お義母さんを近所に引っ越させ、退屈な日々を紛らわすため、近くの麻雀教室を紹介した。年寄りがボケ防止にやっているようなヤツだ。一人暮らしで自炊をし、生活を楽しんでいたが5年後、家で死んでいたのを元夫に発見された。近くに落ちていた携帯電話の表示画面が、私の番号になっていたと、あとから元夫に聞かされた。

息子の陽二が結婚し、私にも孫が出来た。お嫁さんは乳の出が今一つでミルクでの育児だ。私はちょっと安心している。私はお嫁さんの母乳が飲めるかと言われれば、やっぱり飲めないと思う。だから、それが試せなくてちょうどいい。そんなことはお嫁さんには言えないけれど。


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