入るか、崇めるか。それが問題だ。

今、amazonプライムで「ゲーム・オブ・スローンズ」を見てるんですね。それで、今エピソード5まで来ています。なんで見てるかって?それは大好きな逆噴射聡一郎先生のこの記事が読みたいからですよ。

もちろん、私はまだ全部見てないのでこの記事は読んでません。早く読みたいぜ。

さて、これはおおむねネタバレにならないと思うので書くのだけど、大きい木が出てきて、その中に入っていく。というシーンがあります。いわゆる巨樹ですね。とても神格化されている。で、その中に登場人物たちが入っていくわけです。すると、とても木の中とは思えない広さでそこには主のようなもしかすると木の精なのかも知れないけど、まあ、そういう感じの「人」がいて、木の中に入ってきた登場人物と会話をします。

話は変わって、先日ラジオに巨樹写真家の方が出演されていました。日本の山や神社、集落の中にある樹齢1000年くらいの巨樹について話をしてる中「木がいる」とか「とても怖い」という話に興味が湧き、アマゾンでその方の巨樹の写真集を購入。それで、何気なくページをめくってて思ったんです。

そういえば、日本には木の中に入る、という感覚はないんじゃないのか。

写真集の中の巨樹には、しめ縄が巻いてあり、神聖なものとして扱われているものが多くあります。神聖なものには「触れない」という感覚があると思います。あるいはありがたい気持ちで「触れる」というのもあるでしょう。しかし、その木の中に入りたい、って言うのありますか?

ちなみに、その写真の中には「うろ(空洞)」のある木もあります。だけど、大きく開いた空間の前にはやはりしめ縄が張ってあって、入れないようになってる。もちろん、木が痛んだり、そういう理由も大きいのだろうけど、それだけではないでしょう。

日本には「結界」という認識があると思います。つい数日前、私のやっている民泊「たらちね」に、上海からの家族が泊りに来ました。彼らは台所に置いてあるスリッパで畳の上を歩き、そのまま土間まで降りていき、そしてまた畳のところにスリッパのまま戻ってきて、そのままスリッパで台所へ行きます。彼らにとっては全部同じ「家の中」なんです。日本に住んでいると、畳のある場所と廊下には明確に結界があり、それぞれ「別の空間」という認識が育まれるように思います。ところが、そういうのがない。

神格化された巨樹というのも、巨樹と自分たち人間との間には明らかに結界があり、犯すべきものではない。そういう暗黙の認識がある。一方、西洋にはそういうのがない(多分、中国にもない)。昔、集落にある池に、アメリカ人の男性が「イヤッホー!」と飛び込んで泳いでいるのを見ました。見た感じ、とても泳ぎたいような場所ではありません。知らない土地の、水の底が見えない濁った池で、泳ぎたくないですよね。けど、彼は平気なようでした。もう本当に、ホラー映画の「田舎に行って、沼や湖で勝手にはしゃいで地元の殺人鬼に殺される若者」そのまんまなんです。こういう素地があるから、あの形態のホラーが成立するんか!と、ホンモノを見た私はとても感激したのを覚えています。

身近に神社やお寺がある環境で暮らしていると、見知らぬ土地で池に入って泳ぐとか、できないと思うのです。もしかすると神聖な場所かも知れない。水のある場所というのはどこかそういった意味合いがあることを、肌感覚で知っていると思うんです。巨樹も神聖なものと感じれば、そこに入りたいという気持ちよりも「畏れ(おそれ)」のほうが先に立つ。

一方、巨樹があれば中に入りたい。そういう感覚もあるわけです。その違いが面白い。これは木に限らず、例えば、大航海時代にどんどんよその土地を開拓していって、自分たちのものにしていく、なんてことにも通じる感覚です。あるいは、全ての土地がつながっていて、いつ侵略されるか分からないような暮らしをしている民族ならではの感覚なのでしょうか。日本は島国。もしかすると、侵略されにくい山深い土地や、辺境の場所に住んでいる人も私たちと似たような感覚を持っているかも、なんてことを考えました。

それはともかく、ゲーム・オブ・スローンズの最終章には、まだまだ到達できそうにないのでした。


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