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いつも心の中にある感覚

友人にオーラソーマ(カラーボトルで自分を知るツール)をみてもらった時
死を意味する数字が出てきたことに、どこか納得したことがある。

看護師という職業のせいなのか
もともと死に縁があるのかわからないけど
なんとなく、死は、いつも私の心の中にある。

こういう風に考えるようになった原因は
紛れもなく阪神淡路大震災だ。当時7歳。

燃えさかる街
街をはびこるガス
空を覆い尽くす黒い煙
その向こう側から聞こえてくるヘリコプターの音
女の人の泣き叫ぶ声
髪の毛が焼けるにおい

こういう感覚に根付いた記憶って
20年以上経っても全然消えない。

それに強烈に覚えているのがテレビだ。
大規模な災害がおこると
テレビでは災害関連のニュース一色になる。

当時は民放が映らなくなってしまい。ずっとNHKをつけていたけど
そこで読み上げられるのは最新のニュースではなく
亡くなった人、行方不明者の名前ばかりだった。

ただでさえ、現実は不幸で目を背けたくなるものばかりなのに
娯楽であるはずのテレビからよりリアルな死が流れてくる。

テレビをみていても私たちの不安を煽るばかりだと思ったのか
17日の夜からは両親がずっとラジオを聞かせてくれた。

2月までは学校に行っても行かなくてもいい、という体制だった。

久しぶりに再開した友人からは
同じ学校に通っていた生徒も被災して亡くなったことを聞いた。
それも一人じゃない。
当時、体育館は避難所に使われていたから
学校をあげてのお葬式や告別式は行われなかったそうだ。

大きな地震に逢うとお別れさえできないんだね、と
その友達が寂しげに言っていた。


あれから20年以上がたち、そこそこ大人になった。
わたしはなぜか看護師をしていて
人の死にたちあうこともあるけれど
逆にそういう時こそ、いま、生きているということを感じる。
谷川俊太郎さんの「生きる」という詩、そのものだ。

生きている以上、死はいつもそばにいる。
亡くなった患者さんの身体をケアしている時
死はどこか遠くの国の出来事ではなく
ドラマの中の話でもなく
いま、ここで起こっていることなんだと気づかせてくれる。

1月17日。
大規模な災害からの教訓を風化させてはいけない、などと
メディアはこぞっていうだろうけど
災害に逢った人の感覚や記憶は全然風化していない。
今も鮮明に感じられるはずだ。

私だってあの日の女の人の声と人の焼ける匂いは
おばあちゃんになっても認知症になっても
忘れないと思う。

#エッセイ #ナースあさみ

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