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読まれることの、もっとその先

最近、読まれることの目標がわからない。

人によっては、わたしの記事数やフォロワー数なんてまだまだ通過点だと評価する人もいるだろうけど、わたしはそうは思わない。

これでも、十分満たされている。

ひとつもスキがつかなかったnoteを書き続けて、ここまできたのだ。

書くこと、伝えること、伝わること、読まれることの喜びが飽和しつつあるのかもしれない。

だいたい、数字的な目標を立てるのが苦手なので、目指す記事数やフォロワーをクリアすることで喜びを得るタイプでもない。仮に、月間100万PVになったとしても、ほう…次はどんなことを書こうかなって考えてると思う。

記事がバズったとしても、それはアンチと出会ってしまう機会でもあるわけじゃない?

それなら、読みたいと思ってくれている人に、書きたいと思って書いたことが、伝えたいまま伝わればいい。それがわたしの望んでいること…!



と、思っていたんだけど

そういうぬるま湯の中に浸かっていると、読まれることに関しての輪郭がぼやけてくる。

わたしにとって書いたものが読まれるということ、そして、読者に読んでもらって嬉しい状態とは、どういうことなんだろうかって。

読者に伝わること
より読者に刺さること
多くの人に読まれること
読者の心、身体、頭いずれかを動かすこと
お金を払って読んでくれる人を増やすこと
記事や原稿の単価をあげること

どれも正解だけど
わたしにとっては正解じゃない。


もしかしたら
書くことで生計を立てている方に失礼かもしれないけど

わたし
書くことで
クタクタに疲れたことがないの。

もちろん、お仕事で書いた原稿はそのときの精一杯を出したつもりであったんだけど

どうせ、本業じゃないんだから

という甘えが、どこかあったような気がして。


というのも先日、看護師の仕事で精魂尽き果てるような夜勤があった。
もう心も身体もクタクタで帰宅した瞬間、ベッドへ倒れ込むようなやつ。

仮眠から起きて、その疾患や看護について調べて勉強して、次にああいう機会に巡り合うことがあったら、絶対うまくやってみせる…!と心に誓った。

その瞬間

わたし、書くことでこういう体験をしていないな…
自分の至らないところや勉強不足を悔しいと感じたことないな…
書くことでクタクタになるまで自分をまるごと使ったこと、ないな…

と気づいてしまったの。
ということは

うん、わたし、このままじゃダメだ!
書くことを楽しみながら続けられなくなる日が
いつか絶対に来ちゃう

って、悟ったのね。

運命の神様は本当に段取り上手だと思うんだけど、その日の夜、あるWeb記事が目に入った。

わたしが書いたらもっとうまくかけるのに、もっと伝わるような文章にできるのに、なんでわたしに依頼が来なかったんだろうとすごく悔しい思いをした。


同時に、あぁ…わたしがこれから取り組まなくちゃいけないのは、きっとここなんだなって、すーっと身体の温度が下がっていくのを感じた。

つまり、これまでは本当に自分の書きたいことを書いてきたから、今度は読者の読みたいことを、世間が望むものを書くターンだということ。

こういうと、読者や世間に迎合するように聞こえるかもしれないけれど、そうじゃない。

わたしの書きたいことと読者の読みたいことを対話させるようなイメージ。あくまでも、関係性は対等だ。


というわけで、わたしに書いてほしいテーマや内容があればコメントいただけるととても嬉しい。領域は問いません。TwitterのDMでも◎

お仕事の依頼も、すごくすごく嬉しいです…!


読まれる喜びの天井をぐんと高くしたい。

それはそのまま
書くことの喜びにも繋がるはずだから。


貴重な時間を使い、最後まで記事を読んでくださりどうもありがとうございます。頂いたサポートは書籍の購入や食材など勉強代として使わせていただきます。もっとnoteを楽しんでいきます!!