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無名の個人のままがいい

無名の個人に強みがある

これは、ノマドワーカーである安藤美冬さんの言葉だ。
自分の発信やコンテンツで生きていきたいと思い始めた時、ちょうど出会った言葉で今でも大事にしている。

けれども、去年までは何者かになりたくて模索していた。
無名の個人が勝てる時代なんてくるのか?と思っていた。

ナースあさみを早く成功させたかった。
ガンガン稼いで、ガンガン使いたかった。

一緒に発信を始めた友人たちがどんどんフォロワーを増やし、大きな仕事を成功させ、社会的に満たされる様子をみるのが悔しかった。

どうして、私はうまくいかないんだろうってTLを見ながら呆然としていた夜もある。


ところで、私は看護師の他にも、家事代行サービスで作り置きを作ったり、ライターの仕事も時々している。

そうすると

あさみさんは出来ることがあっていいですね
スキルがたくさんあって羨ましい

と、言われることがある。

こう言うとさらに自慢みたいに聞こえてしまうかもしれないけれど、私はちっともそういう風に思っていない。

極論を言えば、出来ることがたくさんあっても、それがしあわせにつながるかどうかは別問題だ。

出来ることは人生の可能性を広げてくれるし
出来る人を否定するつもりはないけれど

出来ることは出来ないこととセットだ。
これは、出来なくなってはじめて気付く。

昔、とあるインフルエンサーに
「目と手が使えなくなったらどうしますか?」
と、尋ねたことがあった。

その人は

「わからない。何も考えられない。」

と、返答していて、今できることに頼り切った生活をしているんだなと思った。

きっと、その人は失明したり両手を使えなくなったりしてはじめて、自分ができることに依存した毎日を送っていたことに気づくんだろう。


こんなふうに考えるきっかけをくれたのは、患者さんたちだった。
特に、重症心身障害児者と呼ばれる人たち。

ピンと来ない人は、駅でたまにみる特殊な車椅子にのった人たち、だと思ってもらえると概ね合っていると思う。

彼らの多くは生まれた時からその病気や障害を抱えていて、生産性を考慮した活動が厳しい。働くこともできなければ、税金を収めることもない。自分の身の回りのことが自分でできないのだ。寝返りでさえも。

言葉を選ばずに言えば、社会のお荷物と呼ばれることもある。
そういう施設は郊外に建設されていることが多く、なるべく多くの人の目に触れないようになっている。

もし、できることがしあわせに繋がっているならば、彼らはしあわせではないし、さらに言えば、生きている意味そのものすら危うい存在になってしまう。

でも、実際はそうじゃない。
彼らは、ちゃんとしあわせな日々を送っている。

彼らには彼らのコミュニティがあって、その中で可能な限り健やかな毎日を過ごしている。大声で笑うし、風が吹いたら気持ちいいと思うし、誰かにとっての大切な家族として生きているし、生かされている。

ある日、実習で受け持った30代の患者さんに、生きていてしあわせですか?と聞いたら、なんの疑いもなく

しあわせ!

って返されて、私は自分の考え方と行動をものすごく恥じた。
障害者は何もできないかわいそうな存在だと思い込んでいたからだ。

全然かわいそうじゃなかった。
むしろ、かわいそうなのはそういうふうに考えてしまう私だった。

できることはしあわせと比例しないし、下手したら相関もしない。
できることとしあわせは別軸の概念なんだと、この出来事で痛感した。


この話を思い出したのは、先日参加したあるイベントの最中だった。
詳細は、麻子さんの下記の記事を参考にしてほしい。

去年どっぷり使っていたオンラインサロンを含む、コミュニティについて。
そのプロとも言える3人が(ひたすら自由に)トークするというもの。

このイベントの中で

・安心や繋がりを感じられる共同体
・摩天楼を大きくすることではなく、裾野を広げることにフォーカスする
・フォロワーが多いことよりも、親密さや文化圏をもっているほうが大事

という話が出て、実習で出会ったあの患者さんのことを思い出したのだ。

重症心身障害児者の施設は、かわいそうな場所ではなかった。
むしろ、独特の安心感と文化があった。〜っぽさというのかな。

ここnoteもそうだけれど、文化のある場所は心地いい。
世界観のあるおうちもそうだし、大きな図書館もそう。

ただ、文化の正体がずっと何かわからないままでいた。
なんとなく、居心地のいい場所?雰囲気?だと思っていたのだが
このイベントで、現時点での解に到達した気がする。


料理を仕事にしているせいだということにして、ここで文化をお出汁にたとえたい。
後々おわかり頂けると思うが、こうするとめちゃくちゃわかりやすいのだ。

そのままを食すこともあるけれど、お出汁は料理のベースとなることがほどんどだ。

味噌汁を始め、すまし汁やおでん、お鍋などお出汁の汎用性はものすごく高い。水で煮るのとわけが違う。

ちなみに、今回は便宜上お出汁としているが、フレンチのコンソメや中華料理の上湯(シャンタン)、イタリア料理で使うブロードやフォンドボーなど世界各国のベースとなるスープもいわゆるお出汁としたい。

場面も日本に戻すと、お出汁は鰹節や昆布、煮干しあたりでとるが、出し殻は基本的に食べない。これは世界のお出汁も同じ。煮出した出汁のみを調理に使う。

塩や醤油、酒で味を整えることがあっても、塩や醤油の味がそのままするわけじゃない。お出汁と調味料が調和し、ひとつの世界を作っている。

そして、ここがお出汁最大のポイントだと思うのだが、すべての食材・調味料を肯定してくれる。

和食であれば基本的にどんなものでも美味しくしてくれるし、ラーメンのスープではお肉とお魚のダブルスープにしてもお出汁同士でケンカしない。むしろ、お互いがお互いを引き立ててくれる。

お肉もお魚も野菜も豆腐も、みんな美味しくしてくれる。

お味噌汁には、具材と味噌が必要だけれど、そのベースにあるのはお出汁。でも、鰹節も昆布も煮干しもお味噌汁には浮いていない。みんな、旨味だけを残して食材と味噌を主役にする。

ここで、文化=お出汁を思い出して欲しい。
そして、調味料と食材を人に置き換えてみて欲しい。

つまり、文化ってそういうものだと思う。
人のいいところを引き出し、肯定してくれる基盤。
でも、目で見るにはちょっと難しいもの。

重症心身障害児者の施設にも、大きな図書館にもこれがあった。
文化のある場所が心地いいのは、いいところを引き出し肯定してくれているからだろう。

できるできないではなく、その人らしさを発揮することが一番の価値になる。そして、文化へつながっていく。


ここで、いいお出汁になるには高級な鰹節や昆布にならなくては!と考える人が出てきそうだけど、それは違うと言いたい。

一番最初に、無名の個人に強みがあると話したけれど、ここでも普通のスーパーに売っている普通の鰹節や昆布が一番強いと思う。
なぜなら、普通の人が普通に使えるものだから。

高級な鰹節や昆布は、高級なお店にしか入荷しないし、そういうお店に入れる人の口にしか入らない。

けれども、多くの人が普通の仕事をし、普通のお味噌汁を飲み、普通のベッドで寝る生活を送っている。大衆のほどんどが普通なのだ。この人たちが飲むお味噌汁の中には、インスタントのものや顆粒だしで作られたものもあるだろう。


でも、それでいい。
普通の人たちの暮らしの中でこそ、文化は生まれ育っていくもの。


というわけで、今日も私は普通のお出汁の要素となるべく、無名の個人を生きていく。
看護師として白衣に袖を通し、残っている食材を見ながらレシピを考え、自分の書きたいことを伝わるように言葉にするプロセスを繰り返す。

周りにいる無名の個人と支えあいながら。

貴重な時間を使い、最後まで記事を読んでくださりどうもありがとうございます。頂いたサポートは書籍の購入や食材など勉強代として使わせていただきます。もっとnoteを楽しんでいきます!!