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短篇「吸血鬼の子守唄」

ローズバイオレット、キナクリドンバイオレット、コバルトバイオレット、ジオキサシンバイオレット、モーブ  、淡口錆桔梗 。

どの紫も、あの紫ではない。

1
その人は、赤と青の絵の具を混ぜても、そう易々とは、思い描くような紫色を作れないことを教えてくれた。

その人はよく、部活を終えた私を塾に連れて行くため、校門にオレンジのポルシェを停めて待っていてくれた。
私は、恥ずかしいから母のマーチで来て欲しいと言っても笑って、
「お兄ちゃんが来るよりマシでしょ。スキンヘッドで、あんながたい良いのが迎えに来たら誤解される」
父は、羽振りの良い住職だというだけなのだけれど。数珠よりも、首にかけた金のネックレスのほうが、明らかに高そうだった。何もかもが、仕方がない。
しかし、叔母がマーチを運転してきたからといって、そのきらびやかな異物感が緩和される訳でもなさそうだった。

叔母は、長い黒髪を誇らしげに左にまとめ、流していた。右耳に小さな貴石のピアスを光らせている。私は常々、ハンドル上の彼女の指先にこびりついた顔料に目を止めなければ、容姿の端麗さも職能の一つとされるような仕事をしているように思われても、おかしくはなさそうだと思っていた。硬すぎも柔らかすぎもしない、檜を削り出してできた彫刻のような横顔をしていた。

人は、彼女を絵に書いたような美人と形容するかもしれないが、それは誤りだ。叔母の美しさは絵画的というよりかは、動く彫像という感じであり、第一、彼女は画家なのだから、描かれるサイドではない。
ただし、私は度々、彼女は自画像を描いて売れば、線路脇で騒がしく、火を放てば一瞬で燃え尽きて、住人は皆死んでしまいそうな安アパートから引っ越せるのではないかと言いかけては、止めた。正しかったと思う。

やがて、叔母は街を出た。祖母が、あまりにも結婚や、孫の出産について言い過ぎたからだと思う。叔母は、よく言っていた。

「私に才能は無いということを知っているのが、私の才能」

2
しばらくして私が叔母に会ったのは、とある美大の受験のために東京へ出てきた時だ。叔母の部屋は、その美大の最寄り駅から準急で15分の街にあったため、1泊するように父から言われたのだった。父の毎日は、あらかじめ誰かの命日であり、人が死なない日は無いのだから仕方が無い。
ターミナル駅の西口に出た。鳩が突いているパン屑さえも薄汚れているように思え、この街に、私の近い未来が横たわっているかと思うと鬱屈した感慨を持たざるを得なかった。

「君、1人で危ないよ」
スーツを着た男が、声をかけてついてくる。
「私、高校生なんで」
「は?未成年?分かりやすく制服でも着てろ」
男は、去っていった。本当に、嫌な街。

少し歩くと、受験を終えた制服姿の高校生が歩いてくる。私は、その波に抗って正門を目指す。レンガ造りに、絡まる蔦。干からびて見えるのは季節のせいであって、衰亡では無いはずだ。下見した受験会場は、近代的なガラス張りのビルだった。熱を出さず、受験票と腕時計さえ忘れなければ、なんとかなりそうだとは思えず、その場から叔母に電話をかけた。多分、泣いていた気がする。それから、百貨店の地下で、いなり寿司を買ってから、普通列車に乗った。

3
叔母は、1駅乗り過ごした私を自転車で迎えに来てくれた。コンビニの袋を下げた叔母は、

「ほぼ同じ所にある駅が違う名前なのも困るけど、隣駅が似た名前ってのもどうかしてる」

と言った。交番を通り過ぎると、叔母は私を荷台に乗せて走り出した。叔母の羽織る白衣の前面は、赤い絵の具が飛び散っていて物騒だったが、私が身を寄せる背面は、まっさらだった。叔母は、砂利道の川辺を滑らかに進んだ。川沿いに植えられた桜の木の蕾が、赤黒く揺れていた。叔母は、昨日観たという西ドイツ映画について話し始めた。

「主人公は男性として生まれて家庭を築くけど、ある男との出会いから、女性へと性転換して、でも、その男とも別れて、今のパートナーとも破局して、それで、街へ男装をして出掛けて、男娼を漁っている人の最期の5日間の話」

この映画を知っている人が居たら、私に教えて欲しい。私は、この映画が実在することを祈っている。

3
床が軋む。絶対に、安定した職に就こうと思った。もちろん、職業に貴賎は無い。当たり前だ。水は出た。しかし、お湯が沸かせない。お茶が淹れられない。叔母は、平然とペットボトルのお茶を飲んでいる。私が感じた恐怖の名前は、分からない。床にビニールシートが敷かれていた。それは、事件だった。絵具のチューブが、散らばっているだけなのに。

私は、トイレへと向かった。廊下で、老女とすれ違う。彼女は、私が叔母にそっくりだと言う。少し嬉しかった気がする。老女も、少し叔母に似ていた。彼女がくれた蜜柑を叔母と食べたのは確かだ。彼女は幻影では無い。幽霊も妖怪も、そう都合良くは現れないはず。

4
叔母が絵を描き始めるというので、私は外に出た。20分程歩いて、やっとサイゼリヤがあった。
帰り道、私は迷子になった。住宅街というのはタチが悪い。似たような家、見覚えのある気がする飼い犬と自家用車。私は、どこ?私は誰?私は、叔母に似ている。それだけが、確かな気がする。

私は、結局地元の公立大学に進学するだろう、多分。私は、結婚しない。子どもは、産まない。私は、叔母と似ている。叔母とは、誰かが死んだら、お葬式で会えるかもしれない。そして、いつか私は彼女の骨を拾うだろう。

煙突が見えた。

迎えに来た叔母は、蛍光色の洗面器を抱え持っていた。番頭で、先程の老女が小銭を磨いている。下駄箱に並んだ私のローファーと叔母のバレエシューズ。高身長の2人。叔母は、札付きのロッカーキーを手首に巻いている。

「本当に、この石鹸だけで全部洗えるの?髪も洗うの?」
「そう」
「顔も同じので洗うの?」
「あそこのおばあさんから買ってくる?」
「大丈夫」

歩き出す叔母。

美しく背骨が浮き出した青白い背中に、小動物の足跡のように連なる紫色の接吻痕。

頚椎、胸椎 、腰椎 、仙椎、尾骶骨。

何気なく話そうとするが、声がよく響いてしまい上手くいかない。彼女は、身体を洗い終えると、浴槽に向かって歩き出す。動作には、その一コマ一コマを切り出したいように思わせる何かがあった。

お湯が黒い。それは、紫色を作ろうとして、しくじった赤と青の混色。叔母は、私の背中に大きく走る手術痕をなぞると、

「よく頑張りました」

と言った。夜道は、部屋より明るいだろうと思った。

5
私は、第1志望の大学は落ちて、あの日見に行った美大へと進学した。
その後、彼女は画廊の経営者と結婚した。その男が最初に買った彼女の作品は、彼女の自画像だった。そのうす白い背中には、1本の大きな直線が刻まれていた。彼女が消えても、その絵は残るのだろうか?

1度、彼女の住んでいたアパートを見に行ったことがある。その場所は、コインパーキングになっていた。銭湯は探さずに、川沿いの道を歩いた。幾つかの橋を通り過ぎると、出来たての橋がかかっていた。抱いた子どもが触って危ないと言って、叔母が私にくれたピアスを左耳から外し、白く塗りたての欄干から弾き落とした。

その夜、高熱を出した私は、幼い頃に両親がしてくれたように額にくちづけられたかった。よく眠れますように、というおまじない。私は、ひとりだ。親指と人差し指をくっつけてできた隆起を額に押し当てる。向こうから舌が出てきたので、歯を立てて噛み切った。それ以降、どの舌も噛み切った。それだけのことだ。

6
お盆に帰省して実家の蔵を片付けると、叔母が描いた抽象画が出てきた。幾何学絵画に反復して描かれる、様々な寒色の二等辺三角形。その1つが、湯けむりに滲むあの日の私たちの背景に見えてしまう私は、彼女の作品の正しい鑑賞者には、なれないのだと思う。

「私に才能は無いということを知っているのが、私の才能」

高慢とは思えず、聴き入れる。今、白紙を眼前にして唱える魔法の言葉、呪文、子守唄。私は、紫を探し始める。あらかじめ失われた紫を。
                                          Fin

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