顔も知らない、話したこともない、それでも悲しかった
※前書き※
ふだん、noteでは、読んだ方が少しでも前向きな何かを得られるような文章を書くことを意識しています(できているかどうかは別として)。
ただ今回は、最後まで私の悲しみを書き綴っただけのものになります。
職場に相談に来られていた方が、亡くなったという報せをいただくことがあります。
けっこうショックです。引きずります。
相談担当の職員さんが、私ではない方だったとしても。
私はその方の、顔はおろか、電話で話したことが一度もなかったとしても。
記録をみて、一方的に知っているだけの方だとしても。
あの、だから。
やっぱり生きていてほしい、っていうのは、エゴですかね。いや、自己満足なんでしょうね。
だって私が悲しもうが、その人のお金になるわけじゃないし、助けになるわけでもないし、その人の問題を解決できるわけでもないのだから。
でもその人が、もし生きていたら。
聞けた話が、あったかもしれない。
一緒にできたことが、あったかもしれない。
そう思うと、なんだか、やっぱり悲しいんです。
悲しいってだけなんだけど。
それだけなのかもしれないけど。
ただ、しみじみと。
その人にしか見えていなかった世界や、切り取れなかった物事、語れなかった言葉が、あっただろうなぁ、と。
そう、思う。
昔ね、これは有名な話なのかもわかりませんけれど。
この世の中から命ある生物がまったく消えても、夕焼けは赤いか? という話を聞いたことがあるんです。
聞いた瞬間は、私は、生物の営みに関係なく夕焼けは赤いだろう、と思いました。
でも違うんです。
夕焼けが赤いのは、赤という色を知覚できる生物が存在しているからなんです。
だからその生物も死に絶えてしまったら、夕焼けの色も消えるんだと。
そういうお話でした。
私が今見ている世界。切り取る事柄。語る言葉。紡ぐ文章。
同じ社会に生きているはずだけど、誰の知覚している世界とも微妙に、あるいは全然、違うんですよね。
だから、誰かが亡くなる、ということは。
その分、この世の中からひとつ、世界が消えたということなんじゃないかと思うわけです。
それがただ、なんでだろうか、悲しいなぁと私は思う。
その世界を直接教えてもらうことが、もう二度と叶わないんだってことが、寂しいなぁと思う。
その世界が、私でなくても誰かの、たった一人でも誰かの、心を揺さぶったかもしれないのに。
でも、それは私が、どう頑張ったところで、相手の世界を垣間見ることしかできないから感じることなのかもしれない。
すごくつらくて苦しい世界に住んでいる人にとっては、私の悲しさ寂しさなんて、それこそ知ったこっちゃない話なんだろうな。
もう何にもできないし、何にもならないけど。
亡くなった方々のご冥福を心からお祈りしています。
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