【エッセイ】パン屋さんとキャッチボール

「おーい、帰ったぞー」
父の声が玄関からする。ダダダッと階段を駆け下りる私。ニコニコ笑いながら父が売れ残ったパンを持って帰ってきた。
 父は名古屋市内のパン屋さんに勤めていた。時々テレビで紹介されるほどの人気店だ。テレビ取材のときには、お客さん役として母もかりだされ情報番組にほんの一瞬だけ出演した。人気店と言っても売れ残ることも多く、たくさんパンを店から持って帰ってくる。アンパン、カレーパン、クロワッサン・・・。父の店のパンはひと通り食べた。私には兄弟がいないので、その時点でパンのバイキング開始である。毎日、好きなパンを何個も食べた。特に雨の日や夏の暑い日はお客さんが少なく焼く量を調整しても売れ残りが出る。最後は廃棄処分になるだけなので家に持ち帰る。
 パン屋さんは朝が勝負。父は真っ暗な早朝3時ごろに出勤し、午後は早めに帰宅する。ちょうど小学生の私と同じぐらいに帰る。夕方、庭でキャッチボールをした。これが案外楽しかった。前日の夜に父と約束をした。
「明日帰ったらキャッチボールをしような」
「うん」
 私が暴投をしてしまい隣の家に取りにいくこともしばしばだった。どこかの公園に遊びに出かけても父とキャッチボールをしていた。今思えば、たわいのないことなのだが、なぜか子供心にとてもうれしかった記憶がある。
 最近、父がパン屋さんに勤めていたことを話すと「オシャレですね」とか「いいね」とよく羨ましがられる。だが、実はいいことばかりでもない。最近、街ではおしゃれなパン屋さんをよく目にする。何十年も前は焼きたてのパン屋さんというのは、まだまだ珍しく焼きたてパンを売る店は人気があった。ところが時代の流れで徐々に似たようなお店が増えてくると売り上げも当然厳しくなる。実際、経営的に苦しいときもあったようだ。しかし、父は私にはそのような話は決してしなかった。
 また、ある時、私が登校する前に父が帰ってきたことがある。母と「えっ。」という顔をしていたら指に包帯を巻いた父が家に入ってきた。食パンをスライスする電動の機械で指を切ってしまったのである。少し血も滲んでいる。それから数日、父は家で寝込んでいた。結局、指は治ったものの右手の人指し指は少し曲がったままだった。それ以来父とはキャッチボールをした記憶がない。父の曲がった指を見るとそのことを思い出していた。
 父は、元々かなり痩せていた。食事も必要以上は食べず、酒もタバコもやらない人だった。帰宅して夕食を済ませると仕事が早朝ということもあり、テレビもほとんど見ることもなく布団に入っていた。父が寝ながら「ウーン、ウーン」とよくうなされていた姿を思い出す。実は、父は子供の頃から肺が悪く、片方の肺がほとんど機能していなかったのだ。当然、太れないし、食も細い。少し走るとゼイゼイと苦しそうに息をしていた。本当は仕事も体力的につらかったのだろう。
 中学を卒業するとすぐに就職し懸命に働いた。戦後間もない頃である。家も貧しく祖父や祖母がほとんど寝たきりだったので父の給料は、すべて家族の生活費として消えていった。自分の小遣いもないほど辛い生活をしていたようだ。
 そんな父が母と結婚し私が生まれた。私が4歳のとき名古屋の郊外に家を買った。かなり無理をしたようだが真面目に働いてローンもきちんと完済した。やっと、これからのんびりできると思った矢先、もともと悪かった肺の病気が悪化し入院した。私が病院に行くとうれしそうな顔をする。だが「病院の食事は美味しくない」と言ってあまり食べなかった。病院の父は自宅の姿とは違い、少し寂しそうな顔をしていた。
 闘病生活も10年ほど経った頃だろうか。
 私が仕事帰りに病室に顔を出すとゆっくりと父は息を引き取った。まるで、子供のころ約束してキャッチボールをしたときのように私を待っていてくれたのかもしれない。
                           おわり。

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