朝鮮使節の見た室町日本
江戸時代には朝鮮から通信使が来るのみでしたが、室町時代には相互に通信使を出し合っていました。
朝鮮王朝は非常に手続きに厳密です。これはおそらく儒学と関係があると思います。やってくるのは通信使、通信使への返事は回礼使、拉致された人々の送還を担当するのが刷還使というように、その役割に応じて名前が付けられていました。
室町時代には何回か来日していますが、詳細な記録が残っているのが1420年に来日した日本回礼使の宋希璟(ソン・ギヒョン)の時と、1443年に来日した日本通信使卞孝文(ピョン・ヒョムン)の時です。
まず一人目は老松堂という号を持つ宋希璟です。彼の『老松堂日本行録』には様々な彼なりの観察が見られます。
彼が来日した前提が応永の外寇です。こじれた日朝関係の中で足利義持は通信使をとりあえず派遣し、朝鮮国王に挨拶と大蔵経を贈ってくれるように頼みました。その義持の通信使に対して派遣された回礼使が宋希璟です。
彼は対馬から博多に入り瀬戸内海を通って兵庫につき、そこから陸路で京都に向かいます。京都に滞在すること2か月近く、宋希璟は亡命元人二世の陳宗奇など室町幕府に仕えていた国際人たちと交渉を続けました。努力の甲斐あって、足利義持は宋希璟との面会に応じ、日朝間の懸案は解消されます。
帰国後、宋希璟は日本での体験を「老松堂日本行録(老松堂は宋希璟の号)」にまとめました。日本人が「当たり前のこと」として記録に残さなかったことが朝鮮からの使者によって記録されたのです。
外国からの使者が見た日本の様子を2時間の講義で楽しんでください。
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