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後ろ向きへの推進力。ラストレターは「こじらせポルノ」だ。

※ヘッダーは映画公式サイトより拝借しました。

※ネタバレはそんなにせず振り返ったつもりです。でもこれから観るよって方は要注意。今すぐ家を出て映画館に向かってください。

↓う

↓わ

↓ぁ

↓あ

↓ぁ

↓.

↓.

いやあ、岩井俊二を、かまされたねえ。

いい大人たちが初恋の残像を追いかけて、傷ついて、それでも前を向いていく話。何度も観たような話だけど、やっぱり好きだなあこういうの。

作品について評するとき、手紙を題材にしてデジタル社会が忘れたノスタルジーを表現、って発想はしやすい。でも現代への警鐘みたいな崇高なものは、この映画に何も無いと思う。

鑑賞後の、得も言われぬエモ。余韻。これに尽きる。

ラストレターは「こじらせポルノ」だ。

「こじらせる」とは?

最初に「こじらせポルノ」の定義をしたいが、その前に「エモ」の話もしなければならない。

僕は2011年頃に「エモい」という言葉を使い始めた。女子高生の間で流行したのが2018年のことなので、僕はエモのアーリーアダプターである。

当時は「センチメンタル」や「ノスタルジー」と近い意味で使っていた。懐かしい風景や音楽などを引き金に、過去の感情がぶわっと湧き起こって感傷的になったとき、「エモをこじらせる」略して「こじらせる」と言うのだ。

その後「エモい」は社会でより広義に使われ、「こじらせる」には、「独身をこじらせる」とか、ちょっと痛い感じの意味合いが付与されるようになった。

今から9年も前に言い始めた僕がオリジンだと、エモの起源説を唱えたいところではあるが、言葉は使う人のものなので何も言うまい。

人を感情的にさせる装置=ポルノ

「感動ポルノ」という言葉を想起する人も多いかもしれない。

はじまりは障害者を取り上げるメディアについて、障害者本人の気持ちを置き去りにして、「清く正しい彼ら」が積極的・前向きに努力するさまを描く様を揶揄するのに使われた。

しかし今回の「こじらせポルノ」という言葉を、そのようにネガティブに捉えて欲しくはない。観た人をオートマティックに感傷的にさせる、つまり人を感情的にさせるための”装置”という意味で使っていることを分かって欲しい。

まとめると「こじらせポルノ」とは、「観る人の思い出を無理やり引きずり出して感傷に浸らせる、扇情的なコンテンツ」である。

僕たちは岩井俊二の掌の上で喘いでいる

物語は序盤、松たか子演じる女性の目線で進む。

亡くなった姉のフリをして初恋の相手と文通する「現代」と、初恋の相手が姉に書いたラブレターをめぐる「高校時代」の二軸で展開されるのだが、ズルいよなあと思う。

高校時代&初恋というコンボは観る人の心をざわつかせるだろうし、人の死まで関わってきたら、そりゃナイーブにもなるわなあという座組。

二時間通して、この描かれ飽きたはずのレッドオーシャンな題材が進んでいくのだけれど、どうしたものか面白い。

姉の娘を演じる広瀬すずや初恋相手の福山雅治といった、最旬のキャストが作品をフレッシュにさせている面もある。

しかしなによりも、岩井俊二監督が仕掛けるベタな展開を、観る僕たちも待ち望んでいると実感させられた。およそ30年、ピュアであること、そしてそれ故の残酷さと向き合ってきた監督の描く「初恋」が、痛いほどに僕たちを震わせることを期待してしまうのだ。

そして彼の狙い通りに心を揺さぶられ、過去に似たような経験はなかったか必死で探す自分に気づく。僕たちの初恋も、どうか美しいものでありましたようにと、会ったこともない監督にすがってしまう。

ラストレターという彼のつくった装置によって、とっくに埋葬されたはずの思い出を掘り返し、精神的自傷行為に浸ってしまう。もしかすると僕たちは、岩井俊二の掌の上で喘いでいるのかもしれない。

絶対に過去に浸るんだという後ろ向きな推進力

…などと、ラストレターが「こじらせポルノ」であることを書いてみました。言葉遣いが回りくどいかなと思ったんですよ。でも劇場を出た瞬間に「これはこじらせポルノだ…」とつぶやいてしまったので、ちゃんと自分の意見に結論を出さなきゃと、まとめました。

映画の公式サイトで川村元気プロデューサーが、「監督との共通認識として、今回はエンタテインメントを作ろうというものがあったので」と述べていて、「こじらせポルノ」という表現もあながち間違ってないかなと安堵しています。

しかし悲しくも重要なのは、そんなロマンティックな思い出なんか僕たちには無いんですよ。

茶葉の出涸らしのように何も出ない過去を振り絞って、無理やりにでも思い出とリンクさせようとする。何がなんでも過去に浸ってやろうという、後ろ向きな推進力がこの映画にはある。それも魅力の一つかなって思います。

フィクションを「正しさ」で殴るんじゃねえ。

ところでTwitterでラストレターとキーワード検索すると、関連語句に「気持ち悪い」と提案されるんですよ。つまりそれだけ多くの人が「ラストレターは気持ち悪い」ってツイートしたんでしょうけど、思わず爆笑しました。

たしかに40過ぎて家庭もある男女が、初恋だ憧れの先輩だとはしゃぎ、挙句の果てに過去を追いかけてストーカーまがいの奇行に走る様は、気持ち悪いかもしれない。

時折、大人たちが「え?なんでそんなことするん?」という理解に苦しむ行いをするので、心がザワザワするという意味の「気持ち悪い」なら分かりすぎます。

(そもそも姉の死を伝えにわざわざ同窓会に行くのはよくわからない。結局言えずに帰ってきて「お前何しに行ってきたんだ」と庵野秀明が自然なトーンで突っ込むのを見て、良かった私がおかしい訳じゃないと救われた人は多いんじゃないか)

あえて言わせてもらうと、初恋って、全部気持ち悪いものだと思うんですよね。

過剰な思い込みで一喜一憂したり、思春期特有の危うい行動力がストーカー行為を誘発したりとか。なんかみんな身に覚えがあるんじゃないのって思うんですよ。

なのに自分ばかり潔癖を訴えるのは、思い出にフタをしてるというか、過去に向き合わず消化できてないのかなと詮索してしまう。

特に恋愛に関して「正しさ」とか「段取り」を重視していると、どうしてもこの映画の気持ち悪さばかりに目がいっちゃうという持論があります。

僕は恋愛至上主義的なところがあるので偏った意見であることは重々承知してますが、ひとつだけ。社会的正当性でフィクションを殴るのはやめてくれ。

今こそ向き合おうぜ、初恋と。

ちょっと変な方に逸れちゃいましたが、ラストレターは最高なので絶対に観てください。

上映が終わって劇場から外に出た時、風景が青みがかった色に見えて、脳内でショパンが流れているはず。僕たちの日常が、ほんの少し切なくて、愛おしいものに変わるかもしれません。

そして家に帰ってからは、美しかったかもしれない初恋の思い出を掘り起こし、愛でてみようではありませんか。

感性がネジ曲がった僕の話なんですけど、30歳にもなると結婚や出産と周りがステップを踏み始め、それはとても素晴らしいことなのですが、「その前にみんな過去の恋愛をどうやって処理したの?」って疑問があるんですよ。

昔好きだった人への恋愛感情はどこにどうやって処分したんですか、と。

うるせえ感情に質量なんてあるかってマジレスする人もいれば、うまく処理しきれず醗酵でもさせて東出間違えた不倫に走っちゃう大人もいるでしょう。

最悪な初恋のこじらせ方をせず、ラストレターみたいな物語を「装置」として活用することで思い出にうまくピリオドを打てたなら、それも作品の存在意義ではないでしょうか。

フィクションがあるから、僕たちはノンフィクションをやっていられると、信じています。

さいごに

この記事でいちばん大事なことなんですけど、森七菜さんは、優勝です…


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