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深夜のファミレスで親子連れを見たとき、僕は余計な負の感情を捨てようと思った

家から車を10分ほど走らせた先に、深夜まで営業するファミレスがある。

周りにはホームセンターや自動車のディーラーが並んでいるが、20時を過ぎればひととおり店じまいをして、あたりは静かな闇に包まれる。だからこの街の夜に光るのは、ファミレスの黄色い看板と、横の国道を走るまばらな車だけだ。

僕は1ヶ月ぐらい前から、帰宅して食事を終えると、ここで原稿を書いたり本を読んだりするようになった。

だいたい21時を過ぎると、条例で街を出歩けなくなる高校生の姿が消え、大人だけの時間がはじまる。スーツに身を包み、チキンソテーを頬張る男性。ポテトフライを延々とつまんでだべる若者の集団。

今日は隣に、教科書やノートを広げて講義のようなものに勤しむご年配の女性たちがいる。先週はリーダーみたいな人がメンバーにキレ散らかしていたっけか。この年齢になられても情熱を持って切磋琢磨できる仲間がいるなんて素晴らしい、見習いたいものだ。とりあえずその洗剤のカタログのようなテキストを買えばよいのだろうか?

閑話休題、今から2週間ぐらい前の話だ。この日は筆が進んだので24時頃まで作業に集中していた。ふと目線をあげると、若いお父さんとお母さんがボックス席で向かい合い、黙々と食事をとっている。なぜひと目見て父母とわかったのか?女性の隣で赤ちゃんが横になっているからだ。

そういえば僕は22時前に来店したが、たしか彼らはすでに座っていたような。ということは2時間経っても、お父さんはタブレットを観ながらハンバーグを食べているのか。そしてお母さんは赤ちゃんを時折なでながら、デザートのようなものを口に運んでいる。赤ちゃんは少しぐずっていたが、すぐに静かになった。失礼なのは理解しつつも、しばらく様子を見つめてしまった。

かつての僕だったら、「こんな遅くまで小さい子を連れ回して!けしからん」と空想のフリップが胸元に浮かび上がっていただろう。要するに「世間で正しいとされている言い分」を根拠に、怒りの感情を抱いていたはずだ。ひょっとしたらこの文章を読んでいる人達もそうかもしれない。

しかし、あえて冷静に考えてみることにした。

もしかしたらお父さんもお母さんも忙しくて、たまたまこの日この時間なら一緒に会えたのかもしれない。本当なら祖父母に赤ちゃんを預けてこようとしたけど、急な事情でやむなく連れてきた可能性もある。お父さんがタブレットばかり観て会話をしないのは、仕事の連絡が急に来てしまったのかもしれない。もしかして目の前の光景が、彼らの最適解なんじゃないだろうか。

思いつくだけの特別な事情を並べていたら、負の感情が芽生えるどころか本当にそう見えてきて、「お疲れ様です」とさえ思った。

このことから何を言いたいか? 小さな子どもを夜遅くまで連れ回すのは仕方ないということ? そうではなく、「僕は彼らに何もできないなら、せめて穏やかでいよう」ということだ。

自分が彼らの親族や友人だったとしたら、何か伝えていたかもしれない。しかし接点のない人が、自分の価値観と合わないことをしていたからといって、どうして勝手に怒り出す必要があるのか? 本来抱かなくても済む負の感情を、勝手に抱いて疲弊してどうする? とこのとき思った。

「いや常識的に考えて深夜に子どもとファミレスなんか来るもんじゃない。しっかり寝かしつけないと駄目だ」と考える人もいるだろう。主張は正しいかもしれない。ならば自分は黙って実践すればいい。わざわざ他人の振る舞いを利用して、自分の人間性を正当化することは、もうやめにしないか?

かくいう僕も「人はこうあるべきだ」という「べき論」に長年取り憑かれていた。「男なんだから弱音を吐くべきではない」「辛くても仕事があることに感謝するべきだ」とかの正当性のようなものをナイフに仕立てては、抉るように自分を刺していた。良く言えば理想や美学があるのかもしれないが、ときに他人に対しても「べき論」を要求し、それが叶わないと勝手に不機嫌になるところがあった。

そういうのはもうやめたいなと、思っていた矢先の出来事だった。僕には僕だけの生活があるし、彼らには彼らだけの生活がある。彼らを非難するような立場に僕はいない。日常の中で他人の振る舞いを見て、一瞬、違和感を覚えることはあるだろう。でもなんとか、想像力をはたらかせて、余計な負の感情を抱くことはやめたいという話だ。

あの家族を見てから数日経つが、その後このファミレスで出くわすことは一度もなかった。願わくば風邪など引かぬよう、温かくしていて欲しい。

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