きみのビールとわたしのビールはちがう

 今年の1月に東京旅行に行った。建前上、旅の目的は東京都美術館で行われていたムンク展だったのだけど、東京にいる友人たちと会えるのが実はたいへんな楽しみであった。
 東京2日目、大学の友人と飲みにいった。この日飲んだ二人は学生の時分も(わたしは今も学生だが)何度も盃を酌み交わしあった同じ学科の同級生だ。彼女たちはストレートで卒業したわけだから、わたしから見れば社会人の先輩になるわけである。もう立派な「OL」で、話題にも結婚がちらついたり、職場の云々かんぬんをたくさん聞かせてもらった。限られた自由時間をいかに過ごすか、というのが、収入はあるが休日の少ないいわゆる「社会人」たちにとってはより大切になってくる。それは彼女たちとて例外ではなかった。
 店に入るとわたしたちは同じテーブルに就き、同じビールを囲む。同じ樽から同じサーバーを使って注がれた生ビールだ。科捜研に出したって成分上の違いはまずみられないだろう。だが、彼女たちが流し込むビールと、わたしが流し込むビールは違う。それは可処分所得の多さだけではなく、その所得を得るまでの過程、仕事上の難所を越えた歓びとか、上手くいかなかった悔しさとか、そういったざらついたものたちがこの麦酒の味わいを支えているためだ。なるべく割り勘に近い比率で勘定を済ませてもらおうとしたが、たぶん比率の問題ではない。
 彼女らは、まるで学生の飲みみたいな飲みをしてくれた。終電を越えてからも一緒にだらだら飲み続けてくれた。純粋にとても楽しかった。けれども、わたしが強く思ったのは、彼女たちと同じ酒が飲みたい、ということに尽きる。社会に出て、なにかを成し遂げる、とか、この世界の不具合を変えてやる、とか、それは働く上で大事なモチベーションのひとつだと思う。でもそんな立派なことよりも、わたしが惨めに思えたのは、今彼女たちと同じ酒が飲めていないということだった。どんな仕事でもいい。企業に就いて、社会人をし、同じ社会人として乾杯がしたい。それが就活の第一のモチベーションであると思った。
 結局、就職活動という就職活動はしなかったが、来年の春には彼女たちと同じ酒を飲むことができそうだ。この桜の咲き誇る季節になんてせっかちな、と思われるかもしれないが、今わたしは来年の春が待ち遠しい気持ちでいる。

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