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ゆたかさは自分の中にあるもの


今日は、昨日個人のあるSNSで、
あまりにも想いが溢れすぎて、その場の勢いでどうしても書きたくなった心の内を、
noteにまとめてみます。
(仮に私の知り合いがこれを見ていたら誰だかバレる…笑)


世界が、日本が、第二次世界大戦以来の危機に直面してから半年弱。
東京という土地と今私が行っている業務上、
日本国内では恐らくほぼ最速ぐらいにこの未曾有の危機の入口に直面しそれから半年。
まさかそのときは本当に半年もこんな事態を引きずるとは夢にも思いませんでした。
世間では半年と言われているけれど、2.3ヶ月の我慢かなと思っていました。

この期間で失われたものはどれだけあるのでしょうか。
つい最近、あることで、身近にその現実の厳しさが降りかかり、
ことの重さに直面し、苦しくなり、そして突然ボロボロとひとりで泣きました。
間違いなくとてつもない危機なんだということを、否応なく、ずん!と突きつけられた感じでした。
これは以前にその日にnoteにも書きました。

けれど、こんな事態だからこそ、気がついたり得られたものもきっとある。とそう思っています。
少なくとも、今現在、とてもありがたい環境にいる私自身は、社会人になってから初めてと言えるぐらいマトモな生活を送るということを知りました。

それから、書く、という瞬間も身につきつつあります。
これは間違いなく、この世の中になってできるようになった私の新しい習慣です。

その中で、人に会えることがとてもありがたいのだということ。
そして、いつなにが起こるのかわからないのだということ。
来月には、本当になにが起こるのかわからない。
日々思います。

最近思うのは、それなら「have to」ではなく「want」がなになのか、
自分の心の中の声をしっかり聞いて生きていきたい、ということをすごく強く意識するようになりました。

そうすると不思議と「have to」ばかりだと思っていた中に、
自然と「want」が見えてきたりもして、
結局今自分が生きている道は、自分自身で選んでいるのだと、気がつくことも多いです。

なにが言いたいのかというと、
私はよくこれを書くのですが、
やりたいことを、大好きなことを思いっきり一生懸命にやって、
大好きな人たちとたくさん笑って過ごしたい。
そしてこの期間にそれが明確になりつつあるものと、明確ではないけれど、これはもしかすると自分の好きなことなのかもしれない、と思うことの幅が広がったりと、見えるものが少し広くなった気がします。
今心の中に感じているこの純粋な思いをどうしてもアウトプットしたい、
これは私のたまに起こる強い「want」です。

こんな事態になり、自分の心の中に目を向けるようになり、
あれ?私の人生こんなにゆたかだっけ?と思うことがとても多くなりました。
もちろん私の特性上、バイオリズムにとても波もあるので、収拾つかなくてずーーーんってなっていることもありますが、
見えていなかったゆたかさに気がつくことは多くなった気がします。

コーヒー一杯で私を温かい気持ちにさせてくれる人がいるということ。(「コーヒー一杯で、高級コース料理よりリッチな時間を」に記載)
誰よりも信頼できる、どんな時でも受け入れてくれる人がいるということ。(「心から信頼しているあなたへ」に記載)
noteに綴りきれなくても、日々の中にゆたかさはたくさん落ちていて、それをゆたかだと思えるかどうかは自分次第なのだと、
腹の底に突き刺さるように、けれど、しっくりとおさまるように、自然とそう思える、気がつけることが多くなりました。

不安で、臆病で、不安定なところがたくさんありますが、
そんな自分ともなんとか向き合って、そういうところも否定しないで真っ直ぐに生きたいなあと思える今日この頃です。

かっこ悪くてもいいじゃないですか。
素敵じゃなくてもいいじゃないですか。
だってそれも本当の自分なのですから。取り繕っても仕方ない。
のんびりゆっくりでも、不器用でも、
自分なりに1日1日を丁寧に生きようと思います。
心がゆたかになり始めると、物事も前向きに捉えられるものなのですね。

世の中が元どおりになる日まで…
あと少しの我慢。
自由に人と会える時間が早くきますように。


こうやって書いている一つ一つの思いも、
その時々にきちんと大切に、忘れずに。


ハレ

平凡なアラサーサラリーマンの独身女子が、人生という名の物語を、1ページずつ、1日ずつ大切に生きるために、ありのままを綴ります。苦しい時も悲しい時も、すべてを受け入れてまっすぐ見つめて前に進むために。人は産まれてきただけで奇跡なのだと、そう信じて。