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自分を縛る罠は自分自身かもしれない

私は産後、母乳信仰にとらわれていました。
当時はそんなことないと思っていたけど、娘がもうすぐ1歳を迎えようとしてる今だから、振り返ってみて「あの時、そうだったなー」と思う。


出産前は、ミルクがダメ、というより「母乳のほうが良いんだよね」という軽い気持ちだった。なぜかあんまり「母乳メインにするかミルクと混合にするか」は深く考えていなかった。

「まぁできるなら、母乳オンリーが良いかな。もし母乳の出が悪いんだったらミルク足せば良いかな」くらい。

出産直後もやっぱり、その考え方は大きく変わらず。
1か月健診時、母乳とミルクの割合を尋ねられ、「ほぼ完母です。」と答えると、「お母さん的には、どうしたいですか?」と医師に聞かれた。

どうしたいか、と言われても、まぁ母乳が出るんだし、それで良いんじゃない。無理にミルクにしなくても免疫力の面でも母乳のほうが良いっていうし・・と思っていて。

「今のままで(完母のままで)良いかなと思ってます。」と言うと、「体重も増えてるし、じゃそのまま行きましょう。」という感じだった。


今にして思えば、一時保育など人に預けたり、保育園に通うことになったり、数時間だけ子どもを夫に見ててもらうという意味でも「ミルクに慣れさせておく」って実は大切だったんじゃないかと思う。
そして、そういう物理的な問題以上に、「自分を追い詰めない」という点で「母乳にするのかミルクにするのか」は結構重要なんじゃないかと。

私が出産した産院では、強い母乳信仰ではないけど「できるだけ母乳をあげましょう」という感じで、ミルクをあげる前に「(飲まなくても)必ず乳首をくわえさせましょう」という指導だった。

入院中、言われた通りに実践していて、最初は十分に母乳が出ず、でもお腹がすいて泣く娘もまだ上手におっぱいを飲めず。
お互いになんだか呼吸が合っていなくて、こんなんで大丈夫なのかと不安が襲う。
産後3日目くらいで、娘がはじめて「ゴックン」と喉をならしたときに、涙が出るくらい感動した。

「ちゃんとおっぱい飲めてる!」

子どもを産んだ瞬間から、周囲に「お母さん」「ママさん」と急に呼ばれだすことに違和感があったのに、おっぱいを飲む娘を見て、初めて「私、お母さんなんだ・・・」と思った。


そして退院後、半年間の育休を取ってくれた夫と二人三脚で、娘のお世話が始まった。

育休前「8時間交代制で、お互い睡眠をちゃんと取りながら育児をしよう」と夫は提案してくれたけど、夜は基本的にいつも私が娘のお世話をすることになった。
・・・・完母だったから。

いや、それ以上に私がそこにこだわっていた気がする。

おっぱいをあげる、以外のことは夫も当然出来る。おむつを替えるとか抱っこしてあやすとか。
家事に関しても、掃除や洗濯は私がしていたけど、食事はいつも夫が作ってくれていた。


はたから見ると、私はとても恵まれた状況だったと思う。
「夫が育休中」というと、「やさしい旦那さん」「良い会社ねー」と必ず言われた。

相手はそんなつもりは毛頭ないのに、なんとなく私は「夜しんどくて」とか「疲れていて」とか言ってはいけない気持ちに襲われ、おっぱいをあげることすら止めてしまったら、私は母親と言えるのだろうかと無意識のうちに思うようになった。

ある時、日中に私がシャワーをしてると、娘が目を覚まして泣いたようだった。お風呂に入る前に「そろそろおっぱいの時間だから、それに合わせて出よう」と思っていて、娘の泣き声が聞こえたときに「あ、やっぱり」と急いで身体をふいて髪にタオルを巻いてリビングに行った。

するとそこには、気を利かせた夫の姿。
なんと、娘に哺乳瓶をくわえさせている。


普通なら、
「わーありがとう、ごめんねー」と軽く言う場面。

でも私は、ひどく傷つけられたような痛い気持ちになった。

「おっぱいをあげたかったのに・・・」


夫だって、娘のそばにいて、泣く姿を見ていたらミルクをあげたい。
おっぱいをあげたいなんて、私のエゴだ。わがままでしかない。

そう頭ではわかっているのに、わかっているから、余計悲しかった。


子どもを育てることに、最初から自信のある人なんているわけない。
だけど、私は自信がないどころか、ちょっとゆがんでいた気がする。
娘が可愛くてたまらないと思えば思うほど、自分の不甲斐なさが悔しくて、「寝不足が辛い」と言いたくなくて、「おっぱいをあげられる」それだけが自分のアイデンティティだった。


産後のガルガル期だよ、とか産後はホルモン分泌の変化で情緒不安定になるよ、と言ってしまえばそういうことなのかもしれない。

「子育てを楽しむ」には、周囲の人の気遣いや声掛けとか子どもの父母の連携っていうより、母親(もしくは父親)自身が妙な思い込みにとらわれないことが大切だと思う。

私は「母親という自信を感じたいから、母乳をあげたい」という自分のこだわりに固執しすぎることが、余計に自分の心を痛くしていた。

私の場合は母乳信仰だったけど、手作り信仰(離乳食は全部手作りじゃないとダメ)とか自然分娩信仰(出産の痛みを感じてこそ親になれる)とか。

どちらかがダメ、とかじゃなく、自由に自分らしい選択をできる自分であることが、「子育てを楽しむ」ことかもしれない。


一方で、私はありがたいことに母乳がちゃんと出て、娘に母乳をあげてこられて本当に良かったとも思っている。
今もまだ絶賛授乳中で、そろそろ断乳を・・・と考えてはいるけど、おっぱいをあげることで少しだけ母親としての自信をもらえて、娘に感謝している。

母乳信仰に囚われすぎて苦しかった気持ちもあるけど、完ミのママさんのことを一ミリも悪く思わなかったことだけは良かったなと思っている。

「これが自分の育児の要だ」と思える主義・信仰を持つことも素晴らしいけど、それがあることで好きな自分でいられないなら、試行錯誤で「今度はこうしてみよう」と柔軟な姿勢でいられるようにしたい。




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