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法華経の風景 #7「嚴島神社」 宍戸清孝・菅井理恵

ヘッダー画像:嚴島神社・大鳥居

 写真家・宍戸ししど清孝きよたかとライター・菅井すがい理恵りえが日本各地のきょうにゆかりのある土地を巡る連載。第7回は嚴島神社を訪れた。


 緩やかな列をなした人々が、砂の道を歩いていく。

 広島県廿日市はつかいち市にある嚴島神社。弥山みせんの原始林を背景に、海上に建つ荘厳な姿で知られるが、訪れた時は干潮になってまもなく、干潟は潮の香りで満ちていた。潮が引けば、入り江の両側にある御笠浜みかさはま西松原にしまつばらから干潟に下り、「大鳥居」まで歩くことができる。周囲にはまだらに海水が残り、海と陸の狭間を歩く不思議に高揚した。

 大鳥居の高さは、木造の鳥居としては日本最大の約16メートル。実は海中に固定されておらず、約60トンという重さだけで立っている。主柱に使われているのは、クスノキの自然木。「根張り」が森のなかの姿を連想させる一方、海に浸かる部分にはフジツボが暮らす。足もとでは貝や蟹がせわしなく動いていた。

平家納経 嘱累品第22(※)

 嚴島神社の宝物館では、国宝「平家納経」の複製を見ることができる。1164年、平清盛が法華経28品を中心に全33巻を奉納した平家納経。表紙や見返し、軸などの細部にまで心を砕いた経巻は、現代の私たちが抱く写経のイメージとはかけ離れている。平家一門の男性がひとり1巻ずつ分担して豪華な装飾を施し、仏と縁を結んだ。

 法華経の「法師品ほっしほん」のなかに、法華経を「書写し、他の人に書写させ、また書写した後で記憶し、そしてその写本に対して花や、末香、薫香、花環、塗香、焼香、衣、日傘、旗、幟、音楽、そして合掌、敬礼による礼拝によって、称讃をなし、尊敬、供養をなす人」は「尊敬されるべき如来」だという一説がある。末法思想が広まるなか、貴族たちは法華経を書写し荘厳する「結縁けちえんきょう供養くよう」に躍起になっていた。

嚴島神社・大国神社

 平家納経には願文が添えられている。通常、願文は文案も清書も経師や能書家などに依頼することが多かったらしい。しかし、平家納経の願文は、願主である清盛自身が清書をしたと考えられている。

 願文のなかで、清盛は嚴島神社を観世音かんぜおん菩薩ぼさつの化現だと書いている。神は仏が姿を変えてこの世に現れたもの。「善を尽くし美を尽くす(尽善尽美)」ことで、平家一門の「この世」の隆盛と「あの世」の往生を強く願った。

 平家納経の装飾の一部は、1602年に修復された際、俵屋たわらや宗達そうたつが手がけたと推測されている。大正時代に「発見」され、宗達の謎の多い人生を紐解く貴重な資料となった。願文の見返しには、草を食む一頭の鹿。今も嚴島神社の周辺には至るところに鹿がいて、人と共に過ごしてきた島の歴史を語るように、よく目が合う。

平清盛像

 嚴島神社と清盛の縁は深い。高野山の大塔を建立した際、老僧から「嚴島神社を信仰すれば一門が繁栄する」と予言されたことに端を発するという。神主の後ろ盾となり、社殿を現在の姿に造営したのも清盛だった。

 その社殿が完成した1169年、清盛はわずか3ヵ月で太政大臣を辞し、福原(兵庫県神戸市)に移っている。瀬戸内海を制して航路の安全を確保すると、近くの港を改修し、それまで太宰府への入港しか認められなかった宋船を入港させた。法華経の観世音菩薩は海難も救う。「日宋貿易」の独占は、平家一門に莫大な富をもたらし、清盛の嚴島信仰はより強固になっていった。

 宮島桟橋前の広場には、法王と同格の身分を示す僧侶そうりょ鈍色どんじき五條ごじょう袈裟けさをまとった平清盛像がある。その視線は京都を向いていた。

嚴島神社・高舞台

 平家一門の権勢が高まるにつれ、嚴島信仰は皇族や貴族にも広がりを見せる。高倉たかくら上皇が嚴島神社に詣でる際、清盛は南宋で建造された唐船を提供し、自らが乗る船で先導することで、瀬戸内海を制していることを強く誇示したという。

 自然、厳島には京の文化が持ち込まれた。平安貴族の邸宅に見られる「寝殿しんでんづくり」の様式を取り入れ、全長約260メートルにも及ぶ廻廊が海に面した社殿を結ぶ。その中心に位置する拝殿の手前に、「高舞台たかぶたい」があった。清盛は四天王寺から舞楽ぶがくをもたらし、嚴島神社には平家一門が納めた舞楽面九面が伝えられている。壁のない柱と柱の間から外光が入り、年月を重ねた板張りの床に光と影を映し出す。気付けば、大鳥居は海のなかにあった。

清盛塚

 厳島は島自体が信仰の対象であり、長く島内に人が住むことは許されなかった。死や血などの穢れは忌避され、島内に墓はなく、出産が近づくと島を出たという。

 嚴島神社を離れ、「清盛塚」に向かう。住宅地を抜ける時に、自宅の前に打ち水をする女性と挨拶を交わす。女性の暮らしのすぐ背後にある、こんもりとした丘。埋もれるように作られた階段を見つけ、怯みながら上っていく。

 清盛塚は経塚とも言われ、清盛が石に一字ずつ法華経を書写して埋めた地だと伝わる。長く「伝説」だと思われていたが、1944年、開墾のために一部が発掘された際、平安時代のものと見られる銅製の経筒や刀片などが発見された。

有之浦

 夕暮れが近づくと、浴衣を着た外国人のカップルが、満潮を迎える海の大鳥居を眺めていた。干潮と満潮は1日に2回ずつ訪れる。この日の干満の差は3メートルほど。寄せては返す波が戻らず、海に沈んだ入江は静かで、昼のざわめきが泡沫の夢のように感じた。

 1181年、清盛が没すると、平家一門は没落の一途をたどる。跡を継いだ息子の宗盛むねもりは、源氏との勢力争いが激しくなるなか、比叡山延暦寺を懐柔するため、日吉神社を氏社に、延暦寺を氏寺にするという起請文を書く。それは、平家一門の嚴島神社との決別だった。

 まもなく平氏は壇ノ浦の合戦で源氏に敗れ、栄華を支えた海で滅亡することになる。


〈次回は11月27日(月)公開予定〉


【編集部注】
(※)小松茂美『国宝 平家納経  全三十三巻の美と謎』(戎光祥出版/2011年)を撮影。

【参考文献】
小松茂美『国宝 平家納経  全三十三巻の美と謎』(戎光祥出版/2011年)
日下力(監修)『厳島神社と平家納経』(青春出版社/2012年)
図録『平家納経と厳島神社の宝物』(広島県立美術館/1997年)
植木雅俊『サンスクリット版縮訳 法華経 現代語訳』(角川ソフィア文庫/2018年)


宍戸清孝(ししど・きよたか)
1954年、宮城県仙台市生まれ。1980年に渡米、ドキュメンタリーフォトを学ぶ。1986年、宍戸清孝写真事務所を開設。1993年よりカンボジアや日系二世のドキュメンタリーを中心に写真展を開催。2004年、日系二世を取材した「21世紀への帰還IV」で伊奈信男賞受賞。2005年、宮城県芸術選奨受賞。2020年、宮城県教育文化功労賞受賞。著書に『Japと呼ばれて』(論創社)など。仙台市在住。

菅井理恵(すがい・りえ)
1979年、福島県喜多方市生まれ。筑波大学第二学群人間学類で心理学を専攻。2003年、日本放送協会に記者として入局し、帯広支局に赴任。2007年に退局し、写真家・宍戸清孝に師事する。2014年、菅井事務所を設立。宍戸とともに、国内外の戦跡や東日本大震災の被災地などを取材し、写真集・写真展の構成、原稿執筆などに関わる。情報誌や経済誌などで、主に人物ノンフィクション、エッセーなどを執筆。現在、仙台の情報誌『りらく』で、東北の戦争をテーマにした「蒼空の月」を連載中。

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