10月7日 カズオイシグロの凄さ

日課のはずのnote記入を忘れていた。
危ない危ない。

読書好きにとってお気に入りの作家さん、大切な作家さんというのは1人か2人くらいいるものだと思うのだが、僕にとってのそれはカズオイシグロだ。
もう1人は村上春樹かな。

僕が読書好きに転じたのは、「わたしを離さないで」を読んだことがきっかけとなっている。

そういう意味において、「僕にとって大切な作家さん」という言葉には単に1.2冊読んで好き!というフィーリングよりもかなり重く、大きな愛が込められている。

カズオイシグロの作品の凄さは、小説でしか表現できない小説的な技巧力の高さにあると思っている。

まあこんなこと言ってしまうとどの作品も小説は小説でしか表現できないはずだと言われてしまいそうだけど、僕が言いたいのはテーマやメッセージ性、ストーリーのロジックなどは実写などで模倣できても、その「伝え方」は模倣できないということだ。

わかりやすい例を出すと、東野圭吾の作品はストーリーのロジックに1番の魅力があるから、仮に実写化したとしても小説と似たような魅力をそのまま受け継ぐことになると思う。
まあ、ストーリー及びそれに付随する文章のわかりやすさも東野圭吾の凄いところだとも思うけど、1番の魅力はと聞かれるとストーリーのロジックなんじゃないかな。

一方でカズオイシグロの作品は世界観を模倣した実写化作品を作ろうとしたら魅力が激減してしまうと思う。
なぜなら、ストーリーテリングが独特だからだ。

カズオイシグロの作品は「信頼できない語り手」という手法を使われているらしい。
語っている本人の記憶が曖昧で、主観的で、読み進めないとその作品の世界観の全容を把握することができないのだ。

こう、言葉で表現すると凄く陳腐になってしまうのだけど、読んだらわかるはず!と思ってしまう笑

僕が「わたしを離さないで」に衝撃を受けたのは、読み進めるながら、その残酷な世界観を断片的に拾っていくという読書体験だった。

主人公は当たり前のようにその世界観にある用語を用いるのだが、読者はその意味が分からないみたいな。「提供者」とかね。

そして、読み進めるとそんな意味があったのかとなる。

これって文章である小説じゃないとできないことだと思う。

言葉だからこそ意味が分からないことに不穏さがあるというか。

映像だと知覚できてしまうしね。

カズオイシグロは「信頼できない語り手」の手法によって作品をより重層的なものにしている。

曖昧な語りから、真実に到達し、それが悲劇的な真実であった時、真実の悲劇性は大いに増して感じられるのだ。

また、曖昧さは読者に感じ方の余白を与えてくれる。

主人公は主観的に語るから、読者からすると主人公はこう言ってるけど、本当の事実はこうなのではないか?と考えさせてくれる機会を与えてくれるということだ。

カズオイシグロの作品で日本で刊行されているものは1冊を除いて全て読んでいる。

残り一作は「充たされざる者」だ。

近いうちに読むと思う。

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