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私にとってのFashionとは。

こんにちは。
御覧いただき、ありがとうございます。
先月に19日から昨日、6月の4日までの2週間、
わたしが敬愛するファッションデザイナー”jean-paul gaultier”の”Fashion Freak Show”が開催されていました。
私は初日19日と最終日4日に行きました。
とても素晴らしいショーであったのはもちろん、彼が生きて、見てきた世界を見ているかのような感覚で、とても引き込まれました。
彼のショーを見たことによって私の中のファッションというものの捉え方が大きく変わりました。

ショーは、彼の半生について。200着を超えるオートクチュールとともに、ミュージカルのような演出だった。
終始、彼の作品を通してファッションの面白さ、美しさを表現し、ジェンダーという視点にも着目されたシーンもあった。

このショーを観て、何を感じたのか、ここに綴っていく。大きく変わったのは、ジェンダーについて。
自分自身の性対象、セクシャルが変わったわけではないが、自己表現の自由という上で、自身のセクシャルの表現は、他人にとやかく言われるものではない。
多くのジェンダー表現が多様化されている現代において、表現することは自由であり、拘束される必要もない。
それは、ファッションにおいて、ジェンダーレスという言葉があるように、ファッションには性別関係ない。
そう考えるようになった。しかし、女性ならではの魅力、男性ならではの魅力というものはある。
女性にしか表現できないシルエット。男性にしか表現できないシルエット。筋肉美や色気。これらは、性別の域を超え、雌雄という観点の、本能からくる魅力である。
ファッションはその魅力に拍車をかける要素にすぎない。
重要なのは、ファッションではなく、「人間性」である。
人間性を外部へ表現する方法の一つとして、ファッションがある。
jean-paul gaultier は「全ての人は美しく、ファッションは、すべての人が、好きなように楽しむものである」そう言っていた。
この言葉には、見た目に関して、自信を損なうことはなく、自分を愛し、自分を表現しても良いというメッセージ性があると、私は考えた。
これにより、私は、日々のファッションを難しく考えずに、その日の気分で決め、欲しいと思ったものを、自分の思い描くものを表現できるものを買うようになった。
これまで、私にとってのファッションは、自己表現の一部だった。
しかし、それは自身の表現であるのに対し、友人などへの布教をしてしまうことが多々あった。
これは共感を求めていたからである。
正解がない、ファッションの世界で、正解を求め、共感を求めていた。
このショーを見る前に気づいていたのだが、ファッションは自己表現の一部に過ぎず、他人から教えられるものでも、強要されるものでもない。
しかし、多くの人は、良し悪しを他人の判断に頼る。
これにより、ファッションは他人がいなければ成立しないものとされてきた。
私自身、このことに関して否定はしない。
それは、誰かに見られ、誰かに自分のファッションを楽しんでもらえること、自分という存在を見て、認めてもらえるなどといった、承認欲求が、ファッションを大きく変える一つの動機になっていると考えるためだ。
時代の流れ。現代ではファストファッションが流行している。これも流れ。
私たちが、「〇〇年代」という言葉を使って表現しているファッションは、時代の流行を表すものであり、少数派ではなく、多数派のファッションであったのだろう。
それはまるで「〇〇年代」という言葉を使い、当時のコスプレを楽しんでいるようなものだ。
コスプレを楽しみ、当時の音楽を聴く。「〇〇年代」という雰囲気を楽しむ。これは一種の趣味趣向。
娯楽なのである。
現代を生きながら、過去を楽しむということができる、現代はとても素晴らしいと感じる。
現代ではなく、過去に着目し、振り返ることは、歴史を知ることである。
何故に現代のようになったのかを知るのは面白い。
それを知った上で表現するファッションには、自分の哲学を込めることができる気がする。

簡潔にまとめると、ファッションは考えずにただ楽しむ。けれど、考えるのも楽しいのがファッションの良さである。
考え抜かれて表現されたファッションも気分というだけで表現されたファッションも美しいものである。

久々の投稿になりましたが、最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

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