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「アスラギ」から遊戯王を取ったら何が残るかわからなかったんですよね。

冒頭で強調しておきたいのですが、これはけして遊戯王を辞めるとかアスラギを辞めるとか、そういう話ではありません。ただ、僕が僕という人間の脆弱性に気づいた、みたいな話をしています。誤解をなさらぬよう。


最近、遊戯王ができない。
そもそも撮影の時ぐらいしか遊戯王をしないのに、その撮影への参加頻度が年々減っていく。
月イチになり、四半期イチになり、半年イチになり、もうちょっと空いたこともあった気がする。
それはもちろん、結婚したり、子どもが出来たり、職場を変えたり、いわゆるライフステージの変化によるものだと思うのだけれど。
遊戯王から離れれば離れるほどに、僕の頭にはある考えが渦巻いていた。


この「アスラギ」ってやつ、どうしたらいいんだ?


しばらくの間、「アスラギ」は素の自分だった。
「アスラギ」とは、たぶんアスラギを知る多くの人にとって、
「遊戯王をやっていて、ミソのデュエルのミソに出ている人(もしくはダンボー)」
である。たぶん。
「アスラギ」とは「遊戯王をやっている僕」であり、「遊戯王をやっている僕」は素の自分だった。

逆を言えば、当時の僕にとって、「遊戯王をやっている僕」以外は素の自分ではないと思っていた。
実家にいる自分、学業に勤しむ自分、仕事をする自分、その他もろもろ。
その場その場に適した防具を着て、とにかく自分に刃が向かないように振る舞って、それでも刃が向いたらゲンナリして、何なんだろうこの世の中と思っていた。
そんな中で、自己を表明しても刃を向けられない(なんならめっちゃ褒めてくれる)数少ない手段が遊戯王であり、「アスラギ」だった。
おかげさまで、「アスラギ」でいた僕は、たくさん遊戯王をできる機会に恵まれて、たくさん友人ができて、こんなに遊戯王から離れてしまった今でも声をかけてもらえるやつになった。大変ありがたい話である。これからもよろしくね。

それはそれとして、遊戯王から離れざるを得なくなってきた時、僕は「アスラギ」をどう扱えばいいのかわからなくなった。


他者の中で、「アスラギ」とは、まず第一に遊戯王をやってる人で、それ以外は二の次である。
しかし、「アスラギ」である僕は、遊戯王をできていない。
「アスラギ」の中身は遊戯王をできていない僕なのに、なんせガワが「アスラギ」だもんだから、何かを発すると必ず遊戯王がセットで付いてくる。

最新弾のカード見ました?
あのデッキにこのカード入りそうですね!
こいつの対策どうしたらいいと思います?
今回の制限改定どうですか…

「アスラギ」として素の自分を出そうとした時、家庭や育児の話をしようとした時に、「そんなことより遊戯王は?」と言われてしまう気がして、誰かの期待を裏切ってしまう気がして、「あれ、俺もうアスラギでいられないのでは…」と思ってしまったのである。


結局のところ、当時の僕にとっては、自己を表現できる術が遊戯王しかなく、たまたまその時に「アスラギ」になれただけで、「アスラギ」という存在に依存して自分を保っていたのだ。
育児に追われても遊戯王を頑張るぞ、と意気込んでいたのは、遊戯王への愛ゆえ以上に、自己を表現できる場を失いたくなかったからだ。
(余談ですが、遊戯王=自己を表現する場であった僕にとっては、イラストはマジで興味の対象外だったんだろうと思う。自己を表現するものはデッキであり、そこに重要なのはカード名であり、効果であり、ステータスだから。道理であんなにクイズ弱いんですね)

結局、僕がやらなきゃいけなかったのは、遊戯王にしがみつくことでもなく、「アスラギ」で有り続けることでもなく。
世界が防具を着込まなければならない場であるという認識を改め、日常生活で自己を表現することを自分自身に許してあげることだったのだ。
(これには心理学用語で言うところの「境界線」がバグっていることが大きく関わっていて、この「境界線」の概念は、僕の人生にとっては本当に、本当に大きな発見だったのだけど、これを書こうとすると長くなりすぎるので、またの機会に)

そんな紆余曲折があり、なんとなく今ぐらいの遊戯王との距離感で落ち着いている。
遊戯王というサードプレイスをなんとか保とうとしながら、家庭・育児・仕事をやりくりする工程は大変に厳しく、各方面になんやかんや迷惑をかけた。
「アスラギ」としては、もちろんもっと遊戯王やりたいんだけど、僕自身を大事にしようと思うと、今ぐらいの距離感で今はちょうどいい気がする。

ということで。
「アスラギ」は素の僕では無くなったし、相変わらず遊戯王に触れられる時間は少ないけれど。
当時の僕よりもだいぶ健全な気持ちで、僕は「アスラギ」でい続けたいと思っています。
これからもよろしくね。

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